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このブログの管理人(上野俊彦)の見解は管理人個人のものであり、管理人の所属する上智大学を代表するものではありません。
広告は管理人および管理人の所属する上智大学とは無関係です。掲載されている写真はとくに断りがない限り管理人が撮影したものです。

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2016年12月15〜16日の日露首脳会談について
今回のプーチン大統領の日本への公式訪問は11年ぶりのことだという。もっとも、日露の首脳会談そのものは、もっと頻繁に行われており、2012年5月にメドヴェージェフ氏に替わってプーチン氏が3度目の大統領に就任し、安倍氏が2012年12月に2度目の総理大臣に就任して以降、2013年に4回、2014年に3回、2015年に2回、そして今年、2016年は今回で4回目である。年ごとの首脳会談の回数を見てみると、ウクライナ政変の影響もあって、2014年、2015年と減少傾向にあったが、2016年は2013年と同じレベルに戻ったことになる。

上記の2013年から現在までの時期で、日露関係がもっとも良好だった時期は、安倍総理のモスクワ訪問により首脳会談がおこなわれ、「日露パートナーシップの発展に関する日本国総理大臣とロシア連邦大統領の共同声明」が発表された2013年4月29日から、G7首脳でただ一人、安倍総理がソチ・オリンピック開会式に出席し、首脳会談がおこなわれた2014年2月8日までの時期だったと言える。

上記の2013年4月29日の「共同声明」では、日露間の「戦略的パートナーシップ構築」を目指すことが確認されるとともに、平和条約締結交渉については、「第二次世界大戦後67年を経て日露間で平和条約が締結されていない状態は異常であること」、「平和条約問題の双方に受入れ可能な解決策を作成する交渉を加速化させる」こと、「互いの国民感情への配慮を背景として平和条約交渉を進めること」が確認されている。とくにこの「共同声明」において、日露が「戦略的パートナーシップ構築」を目指しているとの認識が示され、日露間で初めて日露外務・防衛閣僚協議、いわゆる「2+2」の立ち上げが合意されたことは、我々に、日露関係が新しい段階に入りつつあることを感じさせるものであった。そして、実際、2013年11月2日に、日露外務・防衛閣僚協議が実施され、翌年2月のソチ・オリンピック開会式にG7首脳の中でただ一人、安倍総理が出席したことで、日露関係は新段階に入ったことが立証された。

しかし、その直後に起きたウクライナ政変と、ロシアによるクリミアの併合、それに対する日本および米国・EU諸国による対露経済制裁の実施は、新しい段階に入ったかに見えた日露関係を再び後戻りさせてしまった。

かくして、今回の日露首脳会談の最も重要な目的は、日露関係のレベルを、日露関係がもっとも良好だった2013年4月29日から2014年2月8日までの時期のレベルに戻すことであった。日露首脳会談の前には、日本ではつねに、いわゆる「北方領土」問題の解決、すなわち平和条約締結に向けて、どの程度、日露関係が前進するのか、ということが話題となる。そして、もっと性急な人々は、島がいくつ返ってくるのか、ということを言い始める。しかし、今回の首脳会談は、ウクライナ政変後、後退してしまった日露関係を元に戻すことであって、平和条約締結交渉に関する具体的な進展は期待できなかった。

したがって、今回の日露首脳会談に対して平和条約交渉の進展を期待していた日本の人々は、その結果に失望したであろう。しかし、今回の首脳会談の目的は、日露関係の修復または回復だと考えていた人々は、その目的はある程度達成されたと評価していると考えられる。とくに「2+2」が再開されることは、日露関係の修復を裏付けることとなるという点で、注目に値する。

ところで、今回の日露首脳会談後の共同記者会見での安倍総理とプーチン大統領の発言の中で注目すべき部分は、両者が、ともに、)綿四島(南クリル)における共同経済活動が「平和条約締結交渉の継続のための互恵的な雰囲気をつくり出すことを可能にする」(プーチン)というロジックを用い、◆崙露、両国民の相互の信頼なくして、日露双方が受け入れ可能な解決策を見つけ出し、平和条約締結というゴールにたどり着くことはできません」(安倍総理)、つまり相互信頼が重要、との認識を示したことだ。

とくに、,遼綿四島(南クリル)の共同経済活動の実施に向けて、ようやく日本側がわずかにロシア側に歩み寄ったことは注目に値する。1990年代にプリマコフ氏(元外相、元首相)が提案し、1998年11月13日に発表された「日本国とロシア連邦の間の創造的パートナーシップ構築に関するモスクワ宣言」において、北方四島(南クリル)における「共同経済活動に関する委員会を設置するよう指示する」と書き込まれて以降、18年ものあいだ、まったく具体的な進展のなかった共同経済活動が、今回の首脳会談後に、少しでも動き始めるとしたら、これはロシア側にとっては外交的勝利と言えるであろう。もちろん、日露間の係争地である北方四島(南クリル)における共同経済活動は、モスクワやサンクト・ペテルブルク、あるいはウラジオストクなどに日露の合弁企業が設立され、活動を始めるのとはまったく意味が異なり、主権や法律に関係する難しい問題があって、そう簡単に進むことではない。だからこそ、もしこの共同経済活動の実施に向けて日露双方が歩み寄ることができれば、平和条約締結に向けて前進することにつながると、両国首脳は考えているのであろう。

今回の首脳会談では、日露のビジネスマンが集い、日露間で新しいビジネスが数多く動き始めることが約束された。このことについては、おおむね順調に進むと思われる。やはり、注目すべきは、北方四島(南クリル)における共同経済活動が動き出すかどうかである。
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5月8日付『北海道新聞』朝刊7面にインタビューが掲載されました
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2015年12月16日の民法750条(夫婦同氏制)の合憲性についての最高裁判決について

今日の日本の最高裁の「夫婦同氏制」に関する判決も、また、最高裁の消極性ないし保守性を示したということができます。

「夫婦別姓の禁止」は合憲と最高裁判断、といったニュースが流れています。私は、今日、最高裁がどのような判決を提示するのか、強い関心を持って見ていました。

裁判は正直わかりにくいことが多く、報道の判決要旨などを見るだけで必ずしも、正しく理解できるとは限りません。

しかし、判決文は、それなりの長さがあり、かなりわかりにくいものです。とはいえ、自分なりにちゃんと理解したいと思うなら、直接、判決文を読むことをお勧めします。判決文は、最高裁のホームページで即日公表されます。以下がそのアドレスです。
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/546/085546_hanrei.pdf

さて、今回の裁判は、上告人が、「夫婦が婚姻の際に定めるところに従い夫又は妻の氏を称すると定める民法750条の規定(以下「本件規定」という。)は憲法13条、14条1項、24条1項及び2項等に違反すると主張し,本件規定を改廃する立法措置をとらないという立法不作為の違法を理由に,被上告人に対し,国家賠償法1条1項に基づき損害賠償を求める」ものでした。

「上告人」って何?と思う人がいますよね。ここで、訴えている人を「上告人」と読んでいるのは、この裁判が第一審ではなく、訴えた人が以前の判決に不服であるとして、上級審である最高裁に訴えたものであるからです。つまり、下級審の判決に不服であるとして最高裁に訴えることを「上告」と言うことから、「上告人」と呼んでいるのです。

ところで、裁判は、損害賠償請求として起こされています。「なんだ、要するに、金が欲しいんかい」と思った方がいると思いますが、そうではありません。民事訴訟の場合、損害賠償を求めるものとして行われるのが一般的です。しかし、今回のケースでは、損害賠償請求はあくまでも形式的なものにすぎず、上告人が実際に求めていることは、民法750条の規定は違憲であるという判決を引き出し、その結果、民法750条が改正されることです。

しかし、今日の判決は、民法750条の規定は、〃法13条、14条1項、24条1項及び2項、に違反していない、というもので、上告人の訴えは退けられました。

判決は、憲法の上記の3つの条項について解釈を与え、民法750条がその各条項に違反したものではないことが、憲法の上記の3つの条項ごとに説明されています。

ここで興味深いのは、 嵋楫鏥定は,憲法13条に違反するものではない」、◆嵋楫鏥定は,憲法14条1項に違反するものではない」と結論づけながら、そのあとで、「もっとも。。。」という書き出しで、上告人の主張に一定の理解を示していることです。
すなわち、最高裁の判決は、,砲弔い討蓮◆屬發辰箸癲⊂綉のように、氏が、名とあいまって、個人を他人から識別し特定する機能を有するほか、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格を一体として示すものでもあることから、氏を改める者にとって、そのことによりいわゆるアイデンティティの喪失感を抱いたり、従前の氏を使用する中で形成されてきた他人から識別し特定される機能が阻害される不利益や、個人の信用、評価、名誉感情等にも影響が及ぶという不利益が生じたりすることがあることは否定できず、特に、近年、晩婚化が進み,婚姻前の氏を使用する中で社会的な地位や業績が築かれる期間が長くなっていることから、婚姻に伴い氏を改めることにより不利益を被る者が増加してきていることは容易にうかがえるところである」と述べています。

△砲弔い討癲◆屬發辰箸癲∋瓩料択に関し、これまでは夫の氏を選択する夫婦が圧倒的多数を占めている状況にあることに鑑みると、この現状が、夫婦となろうとする者双方の真に自由な選択の結果によるものかについて留意が求められるところであり、仮に、社会に存する差別的な意識や慣習による影響があるのであれば、その影響を排除して夫婦間に実質的な平等が保たれるように図ることは、憲法14条1項の趣旨に沿うものであるといえる」と述べています。

またについては、「もっとも」ではなく、「なお」で始まる文章が添えられており、「いわゆる選択的夫婦別氏制・・・に合理性がないと断ずるものではない。上記のとおり、夫婦同氏制の採用については,嫡出子の仕組みなどの婚姻制度や氏の在り方に対する社会の受け止め方に依拠するところが少なくなく、この点の状況に関する判断を含め、この種の制度の在り方は、国会で論ぜられ、判断されるべき事柄にほかならないというべきである」と述べているのです。

結局、今回の最高裁の判決をよく読むと、夫婦同氏制を定めた民法750条の規定は、〃法13条、14条1項、24条1項及び2項、に違反していないとしつつも、夫婦同氏制により不都合が生じることがあることはその通りであり、国会で選択的夫婦別氏制を含め、どうすべきか決めなさい、と主張していることがわかります。

こうして、冒頭の私のコメントに戻ります。日本の最高裁が、自身で判断せず、しばしば国会に判断を委ねてきたことを、私は日本の最高裁が消極的、保守的であると言ってきました。三権分立の主旨からして、裁判所が、国会に判断を委ねることなく、「司法権の独立」を発揮して、主体的に判断して欲しいと思ってきました。今回は、判断回避や門前払いでなく、一応、ちゃんとした判決を出しているのですが、やはり「もっとも」とか「なお」とか言って、自身の主張に自信なさげで、国会に最終的な判断を委ねているように見えます。もちろん、国民の選挙によって選ばれた国会こそ、最高機関であるという考え方が前提にあれば、そうした判断も、一概には批判できませんが、国民の「選挙」自体の信頼性が問われているこんにち、国会の判断に委ねてしまうことや、社会の常識のようなところに判断の根拠をおくことには疑問を感じます。むしろ、立憲主義と人権を守るために、司法は、積極的かつ進歩的(国会よりも、という意味で)であってほしい、と私は思います。

| comments | 23:40 | comments(0) | - |
安保法案、参院で可決のニュースによせて
安保法案それ自体の中身、与野党の国会運営のやり方というよりも、もっと重要な問題がある。最も重要な問題は、安保法案の内容が憲法違反であるということだ。憲法に違反していても、国会の多数決があれば立法可能なら、憲法は不要であり、憲法の存在意義はない。つまり、立憲主義が無意味化するということだ。立憲主義は、近代国家の基本である。日本にはそれが確立されていないということを世界に対して示したということだ。日本国民は、政治や外交の分野では、ますます世界から信用されなくなるだろう。そのことを私は最も憂える。

安保法案の中身に賛成の人も反対の人も、憲法にどう書かれていようと、内閣が憲法の解釈を変更することができること、国会の多数決で憲法に反することも決めることができることが、よいと考えているのか?

くり返して言う。安保法案は憲法違反である。憲法に違反している法案を多数決で法制化できるのは間違っている。そのことの危険性をもっと多くの国民が認識して欲しい。

私は憲法を改正すべきでないとか、安保法案の内容が間違っているとかと、一言も言ったことはない。それ以前に、法律や行政命令は、憲法に違反してはいけないという当たり前のことを言っているだけだ。安保法案を可決したければ、まず必要なのは、憲法改正のはずだ。

安保法案が可決されたあとは、最高裁が違憲判決を出すということが必要だが、この最高裁が、これまで憲法判断を避けてきている。

私は、日本にいて、自分はこれまで何をやってきたんだと、無力感でいっぱいだ。くり返すが、この無力感は安保法案が可決されたことに対してではない。立憲主義がいまだに確立されていないことにだ。
| comments | 10:04 | comments(0) | - |
ウクライナについて(この2か月のTwitterから)
この2か月ほどのTwitterfacebookの書き込みから転載します。

◆7月24日のTwitterより[メドヴェージェフ・ロシア首相の発言に対して]
メドヴェージェフ・ロシア首相、「ロシアにはウクライナでの紛争の責任はない。責任は現在及び過去のウクライナ政府にある」と。それはないと思う。ウクライナ政府に最大の責任があるのは事実だが、EUや米国にも、ロシアにも、責任はあると思うが。

◆9月1日のTwitterより[8月31日のキエフ最高会議ビル前の騒乱・爆発事件の映像に対して]
キエフのウクライナ最高会議ビル前の騒乱の映像を見る限り、参加者の持つ旗は、ウクライナ国旗よりも自由(スヴァボーダСвобода)党の旗のほうが多い。過激なウクライナ民族主義を体現するこの党はドネツィクとルハンシクに自治権を与える憲法改正に強く反対し、騒乱を引き起こしたわけだ。
しかし、ウクライナ最高会議ビル前での爆発を引き起こしたのが自由党員であるかどうかはわからない。
それにしても、ヤヌコーヴィチ政権崩壊のきっかけとなった昨年2月の騒乱での射殺事件にしても、いまだに誰が仕掛けたのかはっきりしない。
昨年の春、私は、ドネツィクやルハンシクに自治権を与える連邦制を導入しないと内戦になるとあちこちで発言したが、結局、内戦でぐちゃぐちゃになった今になって連邦制導入が審議されている。
そして、その審議中に、またまた騒乱、爆発だ。このままでは連邦制導入は難しいかも知れない。
しかし、ここまでウクライナ情勢がこじれるとは!
 
| about Ukraine | 09:55 | comments(0) | - |
デザイン優先で、コストは当初から「課題」だった、新国立競技場設計案
7月6日に facebook上で新国立競技場のデザインを「醜悪とさえ思える」と書きましたが、学生さんからよいデザインだという意見も聞きました。いずれにせよ、デザインの問題は好みの問題があり、議論の本質的な問題ではありません。ただ、デザインについて言えば、上空からの鳥瞰パースが完成予想図として使用されていることが多いのですが、完成後に人々が実際に見るのは、地上からアクセスするときの視線です。

さて、議論の本題に入りますが、今日の安藤氏の記者会見の際に配布された資料( http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150716-00000003-wordleaf-soci )によると、「『1300億円の予算』、『神宮外苑の敷地』、オリンピック開催に求められる『80,000人の収容規模』、スポーツに加えコンサートなどの文化イベントを可能とする『可動屋根』といった、これまでのオリンピックスタジアムにはない複雑な要求が前提条件としてありました」と書かれています。 ところが、ザハ・ハディド氏の案が選ばれた理由としては次のように書かれています。

「審査で選ばれたザハ・ハディド氏の提案は、スポーツの躍動感を思わせる、流線形の斬新なデザインでした。極めてインパクトのある形態ですが、背後には構造と内部の空間表現の見事な一致があり、都市空間とのつながりにおいても、シンプルで力強いアイディアが示されていました。とりわけ大胆な建築構造がそのまま表れたアリーナ空間の高揚感、臨場感、一体感は際立ったものがありました」。

つまり、重視されたことがデザインであるということがわかります。そして、さらに次のように書かれています。

「一方で、ザハ・ハディド氏の案にはいくつかの課題がありました。技術的な難しさについては、日本の技術力を結集することにより実現できるものと考えられました。コストについては、ザハ・ハディド氏と日本の設計チームによる次の設計段階で、調査が可能なものと考えられました」と述べられています。

以上のことから、ザハ・ハディド氏の案は、デザインで選ばれ、「技術的な難しさ」と「コスト」は当初からの課題だった、ということなのです。

個人の住宅と比較するのが適切であるかどうかわかりませんが、私が2001年に自宅を建築したとき、まず初めに予算があり、その予算の範囲内で、デザインや機能などの面で、最善のプランを考えるために、建築家の方と一緒に何度も協議し、調査・研究し、約半年の時間をかけて設計プランを作成しました。予算が無尽蔵でない以上、まずコストがあり、その範囲でしかつくれないのです。

ところが、新国立競技場はどうでしょう。コストや技術(技術によりコストも決まります)は後回しで、デザインが選定の決め手になっています。まったくあり得ないことです。安藤忠雄氏を初めとして、この新国立競技場の建設に係わっている方たちが、まず予算ありき、つまり国民の税金によってつくられるのだ、ということについてどれだけ考えたのでしょうか。
| comments | 13:15 | comments(0) | - |
安保法制は違憲なのに自衛隊は合憲なの?
私は、自衛隊は戦力にあたるので憲法違反だと考えています。したがって、私は、憲法9条を改正してから、防衛庁と自衛隊を設置すべきであったと考えています。このときの、憲法改正なしに、なし崩し的に再軍備したという「ボタンの掛け違え」のしわ寄せが、さまざまな問題を生み出しているのだと思います。

また現在の安保法制の議論では、憲法9条が認めている自衛権は個別的自衛権までか集団的自衛権までか、ということになっていて、多くの専門家は個別的自衛権しか認めていないという立場に立っているように見えますが、この問題も、詳細な検討が必要です。

憲法9条がありながら自衛隊の存在を認める立場は、おおむね、「自衛権、すなわち自分で自分を守る権利、というものを認めないという法理はあり得ない。だから、憲法9条も個別的自衛権までは否定していない。従って、憲法9条は、最小限の専守防衛に徹する自衛隊の存在を否定するものではない」とする考え方に基づいていると考えられます。私は、この考えは、一見、合理性があるように見えますが、実は、「自分で自分を守る権利」という個人の権利と、「国家の自衛権」とを同列にして論じているところに問題があると考えています。

人が何者かによって攻撃を受けたとき、身を守り、ときに相手に反撃することを肯定する考え方を正当防衛と言いますが、これはあくまで個人レベルの話であって、国家が軍隊を持つことを、この個人レベルの正当防衛の論理で説明するのは無理があります。立憲主義の考え方に立てば、軍隊や警察は公権力が有する武装組織として、憲法や法律によって厳格に定められる必要があるからです。軍隊や警察が発動されるときには、個人の人権が非常な危険にさらされたり、ときに人権が制限されたり脅かされたりするからです。

従って、憲法9条は、戦力を持つこと、すなわち軍隊を持つこと自体を禁じていると考えるのが妥当であり、抽象的な、あるいは個人レベルの自衛権は、憲法に書かれていようといまいと認められていると考えるべきですが、自衛隊という軍隊を持つことは認めていないし、憲法に書かれている通り、交戦権も認めていないのです。多くの戦争が自衛の名の下で国際紛争の解決のために行われてきた歴史に鑑みれば、どう読んでも、憲法9条は自衛隊の存在やまして自衛隊が他国軍隊と交戦することを認めていないと解釈するのが妥当です。

いま述べたように戦争はおよそ自衛戦争として行われます。例えば、自国の領土であると主張している領土が、他国によって占拠されているとき(その場合、その他国も、その領土を自国の領土と主張していることが一般的です)、その領土を取り戻すために軍隊を派遣することが自衛の名の下で行われても、他国の側は侵略されたと主張し、「自衛のために」反撃に出ることになります。こうして、自衛権を発動した国どうしが交戦することになります。これはまさに、領土の領有をめぐる国際紛争を戦争によって解決しようとする行為に他なりません。

このように自衛戦争と侵略戦争の区別なんてできないし、相手の攻撃基地を先制攻撃することこそもっともすぐれた防衛措置であるという考え方もあり、そもそも21世紀の今日、最新の技術によって開発された兵器を使用して行われる戦争は、ますます防衛と攻撃の区別が曖昧になっています。

以下、結論です。軍隊を持つなら憲法9条の改正が必要です。軍隊を持つ以上、交戦権は認められなければなりません。その上で、軍隊の出動の承認手続について(緊急の場合は事後承認)、憲法で定めなければなりません。また出動の承認手続に際しての判断の基礎とすべき出動事由について明記した法律(これが安保法制にあたる)を制定すべきです。軍隊を持つこと、交戦権を持つこと、派兵することを認めないというのなら、憲法9条は改正すべきではありませんし、自衛隊はすぐに解散すべきです(国境警備、防空その他の必要のための軍部隊をどうするかは、海上保安庁との関係も含め、別途検討すべきですが)。私の主張は、すでに各所で述べていますが、憲法と現実の乖離により、憲法が空洞化することが最も危険だというものです。
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国民は選挙で自民党に過半数の議席を与えたのだから安保法案に反対するのはおかしい?

選挙人は、選挙に際して、A党またはその候補者に投票するからと言って、A党またはその候補者の政策および主張をすべて知っていて投票しているわけではないし、仮にすべて知って投票したとしても、A党またはその候補者の政策および主張にすべて賛成しているわけではない。自分が投票する政党または候補者の政策および主張に100%賛成できない限りその政党またほ候補者に投票すべきではないとしたら、どの選挙人も、いずれの政党または候補者にも投票できなくなってしまう。つまり、民主主義とは、選挙がすべてではないし、選挙で過半数を占めた政党の政策および主張のすべてが、国民の過半数の支持を得ているわけではない。

さらに、選挙制度それ自体の性質からみて、一票の格差は別としても、過半数票を獲得した政党または候補者の絶対得票率(投票率×得票率)が50%を超えることなど滅多にない。小学生でも計算できるが、投票率70%、得票率70%でも、絶対得票率は49%である。

だから、直近の総選挙の結果、自由民主党と公明党が過半数の議席を占めたからと言って、過半数の国民の支持を得ているとは言えないし、まして特定の政策や主張に対して支持しているとも言えない。与党および政府の政策に対してごちゃごちゃ言うのは時間の無駄と主張するのは、「民主主義はすなわち選挙である」と主張するに等しいが、民主主義とは、選挙制度の問題だけでなく、個別の政策や行政行為についての説明責任を果たすこと、選挙以外の政治参加の仕組みを構築すること、そもそも個別の法令および行政行為が憲法および上位の法令に適合しているかを個別に審査していく仕組みがあること、さらにすでに施行された、または実施された法令および行政行為に対してさえ、異議を唱え、必要であれば裁判に訴えて、その法令または行政行為を無効または差し止めることが可能となる制度を持つこと、など多様な仕組みによって初めて担保されるものである。議席が多数を占めているから何でもできるわけではない。最も端的な例を挙げれば、議会の多数決によって採択された法令も、裁判所の判断で無効にできるのである。

さらに加えて言えば、ここで問題にされている選挙も、日本では、その選挙制度自体が公正でないため、司法によって「違憲状態」とされてきたことである。

また、安保法制に対する反対の理由についても、考えてみる必要がある。例えば、多くの憲法学者が、安保法制は憲法違反である、と主張していることに注意して欲しい。つまり、憲法9条をそのままにして、政府が憲法解釈を変更することにより、憲法が定めていることから逸脱することは、結果的に憲法の空洞化・無視につながり、憲法に基づいて政治が行われるという立憲主義の基本を掘り崩してしまうという、これこそ民主主義の根幹が揺らぐ事態になっていることを批判しているのである。政府・行政は憲法・法令によって規制されている。その政府が憲法の解釈をし、憲法の規定から大きく逸脱していることに対して、強い危機感を持っているのである。

現在の内容の安保法制を制定するのであれば、まずは憲法9条の改正をしてから行うのが、立憲主義に基づいた民主主義であると私は考える。

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国際情勢にも目をつぶって従来の(憲法)解釈に固執するのは政治家としての責任の放棄?
2015年6月19日付の新聞報道によれば、「安倍晋三首相は18日、衆院予算委員会の集中審議で、集団的自衛権の行使容認を盛り込んだ安全保障関連法案について、『国際情勢にも目をつぶって従来の(憲法)解釈に固執するのは政治家としての責任の放棄だ』と述べた」という。

時代の推移により情勢が変化した場合、憲法や法律の改正をせずに解釈を変更していては、憲法や法律の持つ規範的意味を喪失してしまう。したがって、安倍総理の言葉が、「国際情勢にも目をつぶって従来の(憲法)条文に固執するのは政治家としての責任の放棄だ」というのであれば理解できる。

くり返して言う。憲法は公権力の専横から国民の権利を守るために存在する。つまり、憲法は公権力の担い手たる政府や政治家を縛るものである。これが立憲主義の考え方だ。

したがって、政府は、憲法や法律が現状に合致していないと考えるのであれば、憲法改正や法改正を目指すべきであり、憲法改正に国民投票の手続がある以上、憲法改正の必要性を国民に説明し、国民の支持を得て憲法改正をすべきである。それこそが政治家の責任である。

そのときどきの公権力が、憲法の解釈変更により、憲法の条文から逸脱するとすれば、民主主義の根幹たる近代立憲主義を無視した文字通りの公権力の専横と言わざるをえない。
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日本とロシアが仲良くなることをアメリカはよく思っていない?
Facebookで、「日本とロシアが仲良くなることをアメリカはよく思っておらず、日ロ接近の兆しを見てとると必ず口出ししてくる…という通説がありますが、実際のところはどうでしょう?」という質問がありました。「日露接近」と言えば、「北方領土」問題ということで、この問題について限定して考えてみましょう。

まず、米国は、第2次世界大戦前に米英ソが宣言した「大西洋宣言」の領土不拡大の原則に反して、1945年ヤルタにおいて、ソ連の対日参戦を引き出すため、ソ連に、日本の領土であるサハリン南半部を「返還」し、千島列島を「引き渡す」ことを、英国とともに認めました。

米国は、このヤルタでの取り決めを、1951年サンフランシスコにおいて日本と連合国との平和条約として明文化して日本政府に認めさせ、同時に日米安全保障条約を締結して、日本を従属的同盟国として在日米軍基地を存続させました。

念のため付言しますが、サンフランシスコ平和条約における千島列島の範囲は、ヤルタ会談でのそれと同様、当然、地理上の一般的な千島列島の範囲(シュムシュ島から国後島まで)であり、日本政府も批准国会でそのように説明しています。「択捉島と国後島は、サンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島には含まれない」という解釈変更は1961年の池田内閣のときにおこなわれました。

さて、次いで日本政府は、中華人民共和国が参加していない、日本の放棄したサハリン南半部と千島列島がソ連領であることが明記されていない、などの理由によりサンフランシスコ平和条約に調印しなかったソ連と、個別に平和条約締結交渉をおこなうことになりましたが、条約の領土条項は、当然、ヤルタおよびそれを確認したサンフランシスコ平和条約と矛盾しないかたちで締結せざるを得ませんから、日本政府は、地理上の一般的な千島列島には含まれていない、歯舞諸島と色丹島の返還という条件で条約を締結しようとします。ところが、ここで米国は、日ソ平和条約が締結されることで、米軍基地撤去・沖縄返還の実現のために日米安保体制に反対する日本の親ソ派野党勢力(旧日本社会党)が勢いづくのをおそれ、日ソ間にくさびを打つことを決意し、突然、ヤルタとサンフランシスコの取り決めを反故にして、歯舞諸島と色丹島の返還を条件とした日ソ平和条約締結は認めないという方針に転換し(ダレスの恫喝)、それに従って日本政府は、択捉島と国後島の返還を追加したため、平和条約の締結に失敗します。

ここまでは歴史的事実だと思います。その後ブレジネフ時代に入り、ソ連はソ日間に未解決の問題はないとして、ゴルバチョフ登場までは、「北方領土」問題については取り付くシマもなかった、というのが日本政府の公式の説明ですが、少なくとも、1971年米中接近(ニクソンショック)、1972年日中国交正常化・沖縄返還(日米関係の好転)などで、ソ連が孤立感を深めた時期に何回か契機はあったようです(1972年1月グロムイコ外相訪日、10月田中総理訪ソ)。確証はありませんが、沖縄返還を実現した佐藤はそれに満足して日ソ平和条約締結交渉という危ない橋を渡る気持ちはなかったようですが、石油外交を表向きの理由にして訪ソした田中には野心があったようで、秘密裏に平和条約締結交渉の開始に合意したかも知れません。田中失脚の原因となったロッキード事件が米国の上院外交委員会から始まったことが気になります。つまりP3C対潜哨戒機の導入に絡む収賄事件とは別に、確証はありませんが、米国に、田中を失脚させたい理由があったというわけです。

日ソ・日露関係に関与するあれこれの有力政治家がスキャンダルまみれで失脚したり与党を離党したりということがあるたびに、そこに米国や外務省内の親米派の動きやらが噂として浮上しますが、ここまで来るともはや学問的研究の対象からは大きく逸脱してしまい、私にはわかりませんが、少なくとも学問的に見てはっきりしているのは、「北方領土」問題の発端は、ヤルタと、それを確認したサンフランシスコにあり、その主要なアクター、とくにサンフランシスコ平和条約の作成者は、ほかならぬ米国国務省だということです。ということは、「北方領土」問題の解決は、米国の同意なくしては困難であることは、明らかです。

原爆投下後の敗色濃厚なときに対日参戦して「北方領土」をかすめ取っていったソ連を「火事場泥棒」と非難し、ソ連・ロシアの「不法占拠」と言うことは簡単ですが、対日参戦は米国が求めたことであり、少なくとも択捉島と国後島の占領は米国の認めるところであったわけです。もちろん、日米同盟下にある現在の日本政府が米国を批判することはできませんが、私たちは、「北方領土」をめぐる歴史的事実を正確に理解しておく必要があると思います。
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