RUSSIAN POLITICS / UENO'S SEMINAR
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プーチン政権20年

5月10日付『中国新聞』第5面に掲載された私の電話インタビュー記事(共同通信配信)です。実際の電話インタビューは4月28日に行われたものです。大統領就任20周年は5月7日ですし、実際の掲載日からすると少し遅くりましたが、本日、紙面のコピーを届けていただきましたので、ご参考までにアップさせていただきます。モスクワ特派員の記事などを含めて、少なくともプーチン政権20周年に関する「共同通信」の報道機関としての論調は、全体として、客観的なものだったと思います。

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雑学のソ連 第5回:バッチ

皆さんは、何かを集めることに夢中になった時期ってありませんか? 私が子どものころは切手収集が流行っていましたが、その後も、子どもたちの間では、何かのカードを集めるとか、モノを集めるいろんな流行がありました。
モスクワにいたとき、天気のいい日曜日には、森の散策も兼ねて、市内の公園に子どもを連れてよく行ったものですが、そんな公園の中でイズマイロヴォ公園( Измайловский парк )には、いわゆる「ノミの市」が立つので、それを見るのを兼ねて出かけていました。「ノミの市」には、ちょっとした雑貨や日用品などが持ち寄られて売られているのですが、バッチ( значок )をいっぱい並べて売っている人をよく見かけました。それまで日本にいたとき、バッチを集める趣味の人に出会ったこともなかったし、日本の「ノミの市」でバッチを売っている人を見たこともなかったので、結構、新鮮でした。

ロシア語学科の公募推薦入試の面接のときに、着ていたジャケットをパッと開いたら、その内側にバッチがびっしりぶら下がっていた、なんていうツワモノがいたり、ペンケースにロシアのバッチをいっぱいくっつけてる学生さんとかもいましたので、ロシア人や、ロシアに興味のある人には、バッチ集めが趣味という人は少なくないようですね。
私は、バッチを集める趣味はありませんでしたので、モスクワの「ノミの市」で買ったこともなかったので、あまりバッチは持っていませんが、それでもいくつかは持っています。その中から、今日は、それなりのエピソードのあるバッチをご紹介します。

1つ目は、ソ連共産党第28回大会のバッチです。ソ連共産党第28回大会は、1990年7月2〜13日に開催されています。私は、仕事で、この大会の開催中に、会場となっているクレムリン内の「大会宮殿」 Дворец Съездов(現在の Государственный Кремлёвский дворец「国立クレムリン宮殿」)に出かけていき、議場には入れないものの、休憩時に扉から出てくる党幹部にぶら下がりでインタビューしたりして情報収集をしていました。その時は、まさかこの党大会が最後のソ連共産党大会になるとは思ってもみませんでした。バッチは、この大会の開催に合わせて作られ、街のキオスクなどでも売られていましたが、私は、仕事上のお付き合いのあった中央委員会事務局国際部職員からいただきました。

2つ目は、ДЕМОКРАТИЯ(ディモクラーツィヤ=デモクラシー)という文字だけのバッチなので、かなり珍しいものではないかと思います。樹脂製なのも珍しいです。これを胸に付けるっていうのは、どういう状況だと思いますか? ソ連末期の、いわゆる「民主派」( демократ ディモクラット)による反政府(=反共産党、反ゴルバチョフ)デモに、このバッチを胸に付けて参加するというわけです。今となっては、ディモクラーツィヤという言葉は、ソ連解体後のエリツィン政権期の経済混乱と結びついた、ややネガティヴな意味合いがある、ある意味、ビミョーな言葉ですが、ソ連末期には、とてもポジティヴな意味があったのです。このバッチは、街頭で買ったものです。

3つ目も珍しいバッチです。ジョージアの旧国旗のバッチです。ジョージアがこの国旗を使っていたのは、1918〜21年(縦横比1:2)および1990〜2004年(縦横比3:5)です。このバッチは、1991年に、仕事でお付き合いのあったジョージア(当時はグルジアと呼んでいました)の外交官からいただいたものです。

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雑学のソ連 第4回:カップ

私は1990年頃にモスクワで購入したカップを愛用していましたが、一昨年、洗っているときに不用意に別の食器にぶつけてしまい、欠けてしまいました。図柄が気に入っていたので残念なことをしたと思っていたところ、昨年(2019年)2月の最終講義のあとのゼミのOGOBを中心とする懇親会の際に、OGOBの皆さんから退職記念にいただいたペアのカップとソーサーのうちの一つが、たまたま同じ図柄のもので、偶然とはいえ、とてもうれしく思いました。

ちなみに、この図柄は、ヴラジーミル州バガリューバヴァ村(Боголюбово)の Церковь Покрова на Нерли「ネルリ川沿いの至聖生神女庇護教会」です。私は2007年夏にこの教会を訪れていますが、外壁の一部を修復中だったので、ネットで見つけた写真を掲載します(6枚目の写真)。ネルリ川がゆったりと流れる草原の中にぽつんと立つ教会で、とても美しい教会です。

さて、カップの話に戻ります。拙宅にはソ連製・ロシア製の食器はいろいろありますが、たまたま、まったく同じ製品で、ソ連時代に製造されたものと、ロシアになってから製造されたものが揃ったので、比較してみました。
1枚目、2枚目の写真がソ連時代に製造されたもの、3枚目、4枚目の写真がロシアになってから製造されたもので、OGOBの皆さんからいただいたものです。5枚目の写真はソーサーとセットの全体像でプロによる宣伝用写真です。
実は、ソ連時代のものと、ロシアになってからのもので、少し色合いが異なるので、窓辺の自然光で撮影し、色調の調整をまったくしていません。5枚目はプロによる宣伝用なので、明るい光源のもとで撮影し、明らかに色調などを加工していると思われます。
ソ連製のものは、全体的に色がやや薄い感じがします。長年にわたって使ってきたために色があせたのか、それとも顔料の色合いがもともと微妙に違うのか、はっきりとは分かりません。
図柄はまったく同じです。ただし、金色部分は手書きでアト入れしていると見え、微妙に異なります(とくに教会の上の木の枝に施した金の絵の具の位置や大きさ)。

カップの裏側は、全然違います。
ソ連時代のものは、ЛФЗ のマークがあって、MADE IN USSR となっています。ЛФЗ のマークは、メーカーの正式名称 Ленинградский фарфоровый завод имени М. В. Ломоносова「ロモノーソフ記念レニングラート磁器工場」あるいは通称である Ломоносовский фарфоровый завод「ロモノーソフ磁器工場」の頭文字です。
ロシアになってからのものは、英語で Imperial Porcelain「帝国磁器」とあり、その下にロシアの国章があり、1744と刻印されています。1744は、Imperial Porcelain Factory すなわち Императорский фарфоровый завод「帝国磁器工場」が設立された1744年を意味しています。

実は、このメーカーは、1744年に、当初は、Невская порцелиновая мануфактура「ネヴァ磁器工房」という名称で設立され、1765年に「帝国磁器工場」となりましたが、1917年に Государственный фарфоровый завод「国営磁器工場」と改称、さらに1925年に「ロモノーソフ記念レニングラート磁器工場」となりましたが、2005年に伝統ある1744〜1917年の名称に戻ったそうです。

我が家にあるソ連時代のカップを見ると、ЛФЗ のマークやMADE IN USSRの刻印が中央ではなく、やや左側に片寄っていること、取っ手の付き方が微妙に傾いていることなど、いかにも「ソ連製」という大雑把な感じが醸し出されていますが、ロシアになってからのものは、きちんとしていますね。

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雑学のソ連 第3回:質実剛健のソ連雑貨

皆さんはソ連のイメージってどんなですか? 私のイメージは「質実剛健」。ソ連に行くまでは、大きな国だし、重工業が盛んということで、「重厚長大」っていうイメージだったんですけど、いざ実際に行って生活してみると、当然ですが、実際に私たちが買う工業製品は、雑貨とか身の回りのものなので、ちょっとイメージが変わりました。

で、今日は、ソ連製の вешалка ハンガーです。今回の話は、前回とは異なり、「いわく」とかは、ぜんぜんありません。ただのハンガーです。

このハンガーが、私のソ連の「質実剛健」のイメージなんです。樹脂製ですが、頑丈にできていて、壊れないです。買ったのは1990年3月頃です。なので、多分、1989年製とかです。30年も使っているわけです。
青いほうは、例のように価格が1ルーブル20コペイカと刻字されています。鉛筆が3コペイカだったことから考えると、ハンガーはかなり高価と言えます。黒いほうは、値段が刻字されていませんが、青い方よりも少し高め、1ルーブル50コペイカとか? だったような気がします。1989年当時の公定レートによる両替だと1ルーブル=250円くらいなので、青いハンガーは300円くらい、黒いほうは375円くらいということになります。

第1回の鉛筆の価格のところで書こうと思って書けなかったのですが、実は、ソ連末期の物価を円換算するのは、かなり難しいのです。というのは、当時のソ連経済はガタガタの状況なので、ルーブルと外貨との為替レートが変動相場制であればルーブルはどんどん安くなるはずですが、ルーブルのレートは固定されていました。上で「公定レート」と書いたのは、ソ連国立銀行の固定レートに基づく、両替時のレートなのです。しかし、外国人がすべて公定レートで両替していたのかというと、実際にはそうではなかったと思います。いわゆる闇レートの存在です。時期にもよるでしょうが、おそらく、ルーブルの公定レートと闇レートとの価格差は最大10倍くらいはあったのではないかと思います(私は、立場的に、闇レートに手を出すとマズいことになるので、手を出していません!)。そこで、1990年頃から、ソ連国立銀行がルーブルと外貨の交換レートを切り下げ、公定レートと闇レートの差を縮めていったのではないかと思います。そして、最終的には、公定レートのルーブルの価格は、1ルーブル25円くらいになったのではないかと記憶しています(したがって、闇レートでは、ルーブルはもっと下がったのではないかと推測されます。このルーブルの為替レートの変動については、機会があればきちんと調べてみようと思います)。

いずれにせよ、当時の物価について、1990年6月に私が書いた記録によると、牛乳1リットル紙パック36コペイカ、ロングライフ牛乳1リットル紙パック44コペイカ、グラニュー糖1キロ54コペイカ、ペプシコーラ小瓶(200ミリリットル)35コペイカ(瓶代10コペイカは別)、などとなっているので、比較すると、ハンガーは、やはり高価です。

ところで物価の話ですが、為替レートの問題を除外しても、ソ連末期(1990〜91年)は、生鮮野菜などについては、商店において国定価格で売られるものとは別に、「ルイノク(рынок 市場)」で自由価格で売られているものがあり、こちらも概ね10倍程度の価格差がありました(もちろん、国定価格のほうが安い)。なので、物価の外貨換算の話は複雑です。まあ、そんなことは、ルーブルで生活している現地の人には関係ない話ですが。
で、商店とルイノクの価格差があるので、現地の消費者としては、まず商店に行き(しばしば行列している)、そこで手に入れられなければルイノクに行く、という行動になります。
1990年6月の私の記録では、ルイノクでは、リンゴ1キロ10ルーブル前後、オレンジ1キロ4〜6ルーブル、チェリー1キロ10ルーブル、ほうれん草1把4〜5ルーブル、卵10個4〜6ルーブルとあります。他方で、商店では、ジャガイモ1キロ20〜30コペイカ、きゅうり1キロ20〜30コペイカ、キャベツ1キロ30〜40コペイカ、ニンジン1キロ1ルーブル、となっています。当時の私の記録には、上述の商店での価格が記録されている野菜は商店で比較的入手しやすい、と書かれています。

とにかく、ソ連末期、経済は混乱していて、国民は大変だったと思います。ただし、食糧難とか物不足とかというのとは違います。当時、日本では、ソ連は物不足、店には長い行列、という報道ばかりだったのですが、物不足や行列は、国定価格が安く抑えられている一方で、ルイノクは高い(こちらが適正価格?)、ということが原因でした。あとは、流通が混乱していた、ということですね。
つい1ヵ月ほど前の日本でも、在庫がたくさんあるはずのトイレットペーパーが店頭から消えたり、行列しないと買えなかったりしたではないですか。原因は、おわかりですよね。ソ連末期も、原因は少し違いますが、あるはずのものがなくなる、という似たようなことが起きたのです。
モスクワにいたとき、私は車通勤でしたから、当然、ガソリンスタンドによく行きましたが、いつも、1時間待ちはあたりまえというぐらいの長い行列(車列)に並んでガソリンを入れていました。ガソリン不足? それはあり得ません。ソ連は世界で一、二を争う産油国です。では、なぜ行列? それは、多分、車の数に比べてガソリンスタンドが少な過ぎたからだと思います。行列の原因は、様々ですね(笑)。

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雑学のソ連 第2回:クロークの番号札

写真は、ガルデロープгардероб(クローク=コート預かり所)の番号札です。
客がクロークにコートを預けると、クローク係がコート掛けにぶら下がっている番号札をはずして、そこに客のコートを掛け、その番号札を客に渡します。客は帰りに、クローク係に番号札を返して、預けていたコートを受け取り、それを着て帰ります。このコートの受け渡しに間違いがないようにクロークのコート掛けには必ず番号札がぶら下がっているわけです。
このクロークの番号札を私が持っているということは、コートを忘れて帰ってしまったということ? いいえ、そうではありません。この番号札をよく見てください。赤くなっている部分に「ЦК КП Грузии」と刻字されています。つまり、これは、Центральный Комитет Коммунистической партии Грузии(グルジア共産党中央委員会)のビルのガルデロープの番号札なのです。しかも、1番。何か「いわく」がありそうでしょ? はい、あるんです。それをお話ししましょう。(ここでは、ジョージアではなく、当時の呼称、グルジアを使います)

私は、1990年12月の初旬、モスクワにあるソ連外務省さらにグルジア共和国代表部を通じて、グルジア共和国外務省に、グルジア共産党中央委員会への訪問および同党幹部へのインタビューを申し込みました。グルジア共和国外務省の担当者は、「なぜ今さら共産党なのですか? その必要性はないと思いますが」と繰り返すのですが、それを押し切って、アポを取ってもらいました。

この部分、少し説明が必要ですね。当時はソ連時代なので、グルジア共和国、正式にはグルジア・ソヴィエト社会主義共和国は、独立国ではなく、ソ連を構成する15の共和国の1つです。ソ連時代、ロシア共和国を除く14の共和国は、それぞれモスクワに代表部を置いていました。独立国ではないので、大使館ではありません。つまりは、日本の都道府県が国会議事堂近くの千代田区平河町の都道府県会館に東京事務所を置いているのと同じようなものです。ただし、ソ連の各共和国の代表部は、モスクワ市内のあちこちにばらばらに置かれていました。グルジア共和国代表部は、ソ連外務省(現ロシア外務省)の近くにあったと記憶しています。
次に、グルジア共和国外務省の担当者が、私のグルジア共産党中央委員会訪問の希望に否定的な対応をした理由ですが、グルジア共和国外務省にとって、私がグルジア共産党を訪問することが何か都合が悪かったわけではないのです。実は、この年、1990年の10月28日に、グルジア共和国で初めて複数政党下で最高会議の選挙が行われ、グルジア共産党は250議席中64議席(議席占有率25.6%)しか取れず、他方で、ソ連共産党とその支部組織であるグルジア共産党に反対する「円卓会議ー自由グルジア」が159議席(同63.6%)を占め、そのリーダーのガムサフルジアが11月15日に最高会議議長に就任して、1922年以来初めて非共産党政権が成立したばかりでした。したがって、グルジア共産党は、少数野党に転落したわけで、もはやグルジアにおいて影響力が失われてしまったため、グルジア外務省の担当者は、「わざわざ、トビリシまで来て、貴重な時間を割いて、共産党に会っても意味ないでしょ」という親切心から、否定的な対応をしていたのです。

説明が少し長くなりました。話を進めましょう。
グルジア共和国外務省を通じてアポを取った私は、12月18日の夕方近く、約束の時間にトビリシにあるグルジア共産党中央委員会を訪問しました。応対してくれたのは、中央委員会事務局のパツァツィア(Пацациа)書記でした。実は、私が訪問する11日前の12月7日、グルジア共産党中央委員会第1書記にマルギアニ(Маргиани)が選出されたばかりで、議会選での敗北、新しい第1書記の就任などがあって、中央委員会事務局はバタバタしていたのではないかと思うのですが、選挙での敗因やら、党の現状やら、新しい綱領と規約をつくり党名も変更されることになるだろうといったことなど、私の質問に率直に答えてくださり、いろいろ親切に話をしてくださいました。そして、パツァツィア書記は、中央委員会ビルの玄関まで、私を見送ってくださいました。
1階の玄関まで向かう道すがら、パツァツィア書記は、当時のトビリシで最も近代的なビルに見えたこのグルジア共産党中央委員会ビルも、まもなく政府に明け渡すことになっている、と寂しそうな顔をして言いました。私は、そんな話を聞きながら、胸ポケットからクロークの番号札を取り出し、なんとなくそれを眺めていましたが、ぶしつけな、そして少し子供っぽいおねだりがしたくなりました。「あ、それじゃ、グルジア共産党中央委員会と書いてあるこのクロークの番号札も、使わなくなってしまうんですね。だとしたら、これ、記念にいただけませんか?」
パツァツィア書記は、ニコッとして、「それなら、別の番号札がいいでしょう」と言い、私から番号札を受けとって、クローク係の女性に番号札を渡しながら、グルジア語で何か言い、クローク係は私のコートと、空いていたコート掛けから別の番号札を持ってきました。パツァツィア書記は、私にコートを着せて、「はい、これがパダーロク(подарок プレゼント/お土産)です」と言って、この写真の番号札をくれたのです。「ピエルヴイ(первый 1番)!?」「そう、ピエルヴイ。ピエルヴイ・セクレターリ(Первый секретарь 第1書記)のピエルヴイ(第1番)!」

後日譚ですが、パツァツィア書記の言っていたとおり、私が訪ねたグルジア共産党中央委員会ビルは、その後まもなくグルジア政府のものとなり、現在、ジョージア政府官房(日本で言う内閣府ですね)が入っています。また、前述のように私の訪問直前の12月7日にグルジア共産党第1書記に就任したばかりのマルギアニは、その2ヶ月半後の1991年2月19日に第1書記を辞し、民主同盟党を創設(グルジア共産党は、あらためてミケラッゼ Микеладзе が第1書記に選出され、その後もしばらくは存続します)、グルジアの独立後の1992年11月から1995年9月までグルジア政府副首相を務めています。しかし、残念ながらパツァツィア書記のその後についての情報はありません。

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雑学のソ連 第1回:鉛筆

私は、ちょっとしたメモをとるときには鉛筆を使うことが多いのですが、普段使いしている何本かの鉛筆のうちの1本がソ連製の鉛筆の最後の1本だということに気づき、在宅でネットを見ている方も多い今日この頃、「雑学のソ連」と題して、身の回りのソ連製の「遺物」をめぐる短いエッセイを書くことにしました。今後の展開は本人も予想がつきませんが、ご興味のある方はお付き合い下さい。

第1回の今日は、ほんとに身近な鉛筆のお話です。写真をごらん下さい。かなり短くなってしまいましたが、いまや貴重なソ連製の鉛筆です。

鉛筆の側面に印字されている「КТОР 2М-3М 89 ц.3к.」について解説しましょう。

КТОР」は、この鉛筆の製品名の「АРХИТЕКТОР(建築家)」の末尾4文字です。もちろん、単語の先頭部分は削られてしまったわけです。この鉛筆は、とくに建築家用というわけではなく、普通に売られていた、ありふれた鉛筆なので、「АРХИТЕКТОР」というのは、単なる製品名だと思います。他に、「КОНСТРУКТОР(設計家/デザイナー)」とか、「ХУДОЖНИК(画家)」とか、「ЧЕРТЕЖНИК(製図工)」と印字された鉛筆もありました。

2М-3М」の「М」は「мягкий(柔らかい)」という形容詞の頭文字で、日本の鉛筆で言えば「2Bないし3B」の硬さ、ということです。なので、「твёрдый(硬い)」の「T」の記号がついたものもあります。

「89」は、西暦の下二桁で、製造年を示します。

ц.3к.」の「ц」は「цена(価格)」、「к」は「копейка(通貨単位の「コペイカ」)」の頭文字です。つまり、この鉛筆の価格は3コペイカです。ちなみに、1ルーブル=100コペイカです。1989年当時は、1ルーブル=400円くらいだったと思いますので、この鉛筆は1本4円くらいだったということになりますね。ソ連時代のルーブルは今よりもずっと価値があったのです。なお、価格が印字されているのは、ソ連が中央集権的計画経済だった証拠です。市場経済とは異なり、商品の価格は固定価格だったので、ほとんどの工業製品には、あらかじめ価格が印字されていたのです。

最後に鉛筆の木質部分の色ですが、これは普通の黒い鉛筆なのに赤色になっています。これはたまたまで、緑色や青色のものもありました。

品質ですが、書き心地の点でとくに問題を感じたことはありませんが、日本のトンボや三菱などの有名メーカー品に比べて、芯がやや折れやすい気がします。

| about Russia | 15:05 | comments(0) | - |
モスクワでの反政府デモ、許可される場合と許可されない場合

8月10日のデモについて、ロイターは「監視団体OVDインフォによると、モスクワでは245人が拘束された。サンクトペテルブルクでも集会があり、80人が拘束されたという。このほか、ロストフ・ナ・ドヌやブリャンスクなどでも少数の人が拘束された。ただ、拘束者が1000人以上に上った先週と比べ、当局の態度は軟化した。今回のデモは先週とは異なり、当局が開催を許可した。デモは大きな混乱もなく行われていたが、終了後に若者を中心に数百人が政府の建物の周辺に集まり、プーチン大統領への不満の声を上げるなどし、機動隊が出動する事態となった。」と伝えている。

< https://jp.reuters.com/article/russia-politics-protests-idJPKCN1V206T >


ロイターは、この記事で、逮捕者が少なかったことを「当局の態度」が「軟化した」ことが理由だと理解できるように書いているが、逮捕者が少なかったのは、この記事にあるように、許可されたデモだったからだ。さらに言えば、モスクワの245人の拘束は、記事では明確ではないが、おそらく終了後の「数百人が政府の建物の周辺に集ま」ったところでなされたと推測される。これは無許可だったと推測されるからだ。

では、なぜ今回はデモが許可されたのか。ここがもっとも重要だ。この重要なことをロイターは報道していない。

もし、同じ場所でのデモが、先週は無許可で、今週が許可されるなら、当局による規則の恣意的運用であり、デモの主催者側としては困る。もちろん、先週は、別のパレードの実施が決まっていて、つまり先約があるので許可できなかったなどという合理的理由があったのであれば仕方がないが、先週の無許可の理由はそういうことではなかったと推測される。その推測は、デモについてのたくさんの国内報道を丹念に調べてみることで可能となる。

先週、つまり8月3日のデモが許可されなかったのは、実施予定地がブリバール Бульварное кольцоだったからだ。ブリバールはモスクワの中心部を一周する約9キロの並木の環状道路で、1周で9キロという短さからわかる通り、クレムリンから徒歩圏内のモスクワ最中心部の、それだけに環状道路としては最重要の、だからこそ渋滞することで有名な通りだ。歩道も狭く、モスクワにある幹線道路としては狭い部類に入る。ところで、ブリバールでの実施と言っても、集合地点は、クレムリンから北に向かう放射状の幹線道路の一つであるトヴェーリ通りТверская улицаとブリバールとの交差点にあるプーシキン広場Пушкинская площадьのことが多い。プーシキン広場は、ソ連時代にマクドナルド1号店が出店したところでもあり、近くにモスクワ市役所、高級ホテル、映画館、高級ブティックなどもあり、また地下ショッピング街などもある、言ってみればモスクワの銀座四丁目というか、渋谷スクランブル交差点というか、新宿東口伊勢丹前というか、そんなところだ。ここでのデモは、ちょっと考えられない。道路交通の邪魔になることや、もともと繁華街のため、観光客や買い物客も多く、警備上の問題も多いからだ。それだけに、逆に、強行すれば、宣伝効果も大きい。実は、デモ隊が警官隊にボカスカやられている動画を見ると、このプーシキン広場付近のことが多い。

さらに遡ると、7月27日のデモが許可されなかったのは、デモの集合場所がモスクワ市議会ビル前だったからだと推測される。これも警備上の理由だ。道路も広くない。

ちなみに、デモではなく、集会であれば、プーシキン広場での実施が許可されることはある。例えば、「選挙」がらみの最初の集会だった2011年12月下院選直後の「選挙を公正に」集会は、プーシキン広場で開催された。実は、私もこれに参加したのだが、地下鉄の出口から広場までの歩道は野次馬というか群衆がびっしりで、歩道や広場は警官隊に囲まれていて、人が車道にあふれ出ないよう規制していたのを記憶している。広場での集会のため、道路交通を止めてなかったからだ。ところが、予測に反して多くの人が集まりすぎ(その大半は野次馬だったが)、ここでの集会は、参加人数の規制もかけないと危険だ、と感じた。実際、広場の入口には臨時のゲートが設けられ、広場への入場には規制がかけられていた。私は、国際選挙監視員証とパスポートを提示した上で、警備の警察官に理由を説明して入場を許可してもらった。どんどん入れたら確かに危険だ。あらかじめ参加人数を正確にコントロールできる主催者がいるとしたら、それは役所側か、しっかりした政党や団体に限られ、SNSで参加を呼び掛けるような集会やデモは参加者数の予測ができないので、プーシキン広場で集会を実施することは不可能だと思う。許可されないのは当然だと私には思える。

で、今回のデモは、サハロフ通りПроспект Академика Сахароваの、サドーヴァヤ・スパスカヤ通りСадовая-Спасская улицаの外側部分で実施された。ここでのデモの実施は、土日であれば、基本的に許可される。この通りは、前述のブリバールの外側にあるモスクワの中心から北東方向に向かう放射道路であり、片側三車線(路上駐車スペースを車道として使用すれば片側四車線)あり、歩道もかなり広く、この通りが通行止めになっても、迂回のための並行道路もある。このサハロフ通り沿いには、VEB.RF(旧ロシア外国貿易銀行)、国際投資銀行、国際経済協力銀行、アルファバンク、ロスバンクなどの巨大オフィスビルが立ち並び、小売店舗などは、ほとんどない。それだけに土日は比較的閑散とした地域だ。だから、許可されるというわけだ。

ロシアにおける「無許可デモ」で逮捕者多数との報道が繰り返され、ロシアでは集会の自由や言論の自由が抑圧されているという印象操作が行われているが、「許可」された場合の実施場所から見る限り、「無許可」は交通や警備上の都合なのではないかと推測できる。逆に言えば、政府を支持するデモや、非政治的なデモであっても、参加者数をコントロールできる政府や責任ある団体が計画したものでない限り、プーシキン広場からデモをスタートさせ、クレムリンに向かうとか、ブリバールを回るなどのデモは許可されないのではないだろうか。

ちなみに、「ロシアの日」のパレードは、トヴェーリ通りをプーシキン広場前を通過し、クレムリンに向かって進んでいるが、あれは主催者がパレードをちゃんと計画して準備したもので、パレード参加者はあらかじめ決まっており、SNSで参加を呼び掛けるようなものではないからだ。

市民運動やNPOなどの発展は、市民社会の成熟にとって欠かせない。憲法に定められている、デモや集会、言論や表現の自由などの基本的人権は最大限保障されなければならない。しかし、それは社会を不安に陥れたり、混乱を招くものであっては、かえってマイナスだろう。デモや集会の実施も、安全や他者の権利を損なうことのないよう(ここでの議論に照らせば、デモ参加者やそれ以外の一般市民の安全を確保し、道路交通の妨げにならないようにすることを)配慮して行われなければならないだろう。

 

 

JUGEMテーマ:ニュース

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ロシア政治における「野党」と「反対派(反体制派)」

現在のロシア下院に議席を有する「統一ロシア」、ロシア連邦共産党、ロシア自由民主党、「公正ロシア」などのうち、与党「統一ロシア」以外の3党は、野党と言えるのだろうか、いや野党とは言えない、という意見を目にすることがある。

しかし、私は、ロシア連邦共産党、ロシア自由民主党、「公正ロシア」は、「野党」であると考えている。その理由は、以下の通りである。

本来は、ロシア連邦共産党、ロシア自由民主党、「公正ロシア」などは野党とは言えない、という意見の前提となっている「政党」や「野党」の定義は何か、といったことから議論を始めるべきなのだが、こうした意見が主張される際に、「政党」や「野党」の定義がなされているのを見たことがないので(それほど、網羅的にこうした意見を調べたわけではないが)、とりあえず、ここでは私の見解を一方的に主張するにとどめる。

私は、「政党」および「野党」を、とりあえずは、以下のように定義している。

「政党」とは、ある国家または地域において、当該国家または地域において定められている一定のルールに従って活動し、その党員および支持者が、選挙および議会活動を通じて、また選挙によって行政首長の職を得ることを通じて、立法および行政において、自党の政策を実現しようとする政治活動家の集団である。

「野党」とは、上記の定義の「政党」のうち、選挙によって行政首長のポストを占めることができなかった政党、および議院内閣制においては議会によって形成される政府の閣僚ポストをその党員および支持者によって占めることができなかった政党である。

私は、これらの定義に基づいて、現在、ロシア連邦共産党、ロシア自由民主党、「公正ロシア」は、「野党」であると考えている。

私の推測だが、ロシア連邦共産党、ロシア自由民主党、「公正ロシア」は、野党とは言えない、という意見が主張されるのは、これら3党が、プーチン大統領に本気で反対していない、プーチン大統領が構築した現在のロシアの権威主義的あるいは「強権的」体制に反対していない、あるいはその体制に反対しないどころか、その体制に乗っかって与党「統一ロシア」の食べ残したパイの残滓にありつこうとしている、と考えているからではないだろうか。

上記の政党の定義において、私は、「ある国家または地域において、当該国家または地域において定められている一定のルールに従って活動し」と述べた。この「一定のルール」は、明示的なもの、つまり憲法や法律などだけを意味するのではなく、いわば「暗黙のルール」も含む。「暗黙のルール」は、「暗黙」なだけに曖昧だし、文字通り暗黙のうちに変化する。「空気を読む」と言うときの「空気」のようなものである。この「暗黙のルール」を含めて、この「一定のルール」は、ときに、ざっくりと「体制」と言われることがある。つまり、そもそも政党は、野党も含めてこの「体制」に従う(受け入れる)、あるいはこの「体制」に乗っかったものである。まあ、「乗り方」にも多様性があるから、曖昧な部分はあるが。

で、日本の暗黙のルールって、どんなものか。例えば、「米国の核の傘の下にいる現状をとりあえず受け入れること」だったり、「自由と民主主義を標榜する諸国の一員だと主張すること」だったり、「自由競争と市場経済をとりあえず肯定すること」だったりするのだろう。まあ政党論にはあまり関係ないが、わかりやすい例を挙げると、雅子「さま」とか、愛子「さま」とか言ったり書いたりする、なんてのも、憲法や法律では決められていないから、暗黙のルールなんだろう。もちろん、「我が党は米国との軍事同盟から脱し、中立日本を目指します」と主張している政党があることは承知している。だから、「核の傘」や「市場経済」のくだりで、「とりあえず」と書いたのである。まあ、日本政治の場合は、米国との関係が多分もっとも重要なことだろう。現状の日米関係をキョヒる、あるいは根本的に覆そうとすると、日本で、政治家としてやっていくのはかなりキツいだろう。少なくとも、組織として守ってもらえないと、かなりキツい。

さて、ロシアの「暗黙のルール」には、どんなものがあるのだろう。多分、日本とは逆の意味で、やはり米国(あるいは「西側」)との関係は重要だろう。今のロシア政治では、外交の文脈で「親米」とか「米国との全面的な協調・協力」とかを主張すると、政治家としてはかなりキツい。個別政策で言えば、例えば、「クリミア併合は間違った政策だ」と言うのもアウトだろう。国内政治の文脈では、国民の68%(最新のレバダセンターの調査)がその活動を肯定しているプーチンを侮辱するのが、いちばんキツい。もちろん、コアな支持を得ようとするならOKだし、欧米のメディアが喜んで飛びつくので、一定の需要はあるが。

で、ロシアでも日本でも、体制を根底から批判する、いわば「ちゃぶ台返し」は、もはや「野党」として許容されず、「反対派」ないし「反体制派」となる(ただし、ソ連政治における「反体制派」が特定の意味を持っていたので、その発想から抜けきらない状態で、ロシア政治の文脈で「反体制派」という用語を用いるのは誤解を招く可能性があり、慎重である必要がある)。

この「反対派」ないし「反体制派」だけを「野党」と言うべきだと主張すると、日本の国会に議席を有する野党のほとんど(またはすべて)は「野党」ではないし、現在の米国の民主党も英国の労働党も「野党」ではない、ということになる。ロシア史に当てはめて考えてみれば、帝政期の下院に議席を有する政党はほとんどすべて「野党」ではなく、「野党」はボリシェヴィキとエスエル左派だけということになる。

このような議論をしていると、思い出すのは、1960年代末期の全共闘運動(学園紛争)全盛期の頃のことである。私は、学園紛争のために東大入試が中止となった翌月の4月に、高校に入学した。従って、私は、高校生から学園紛争に関わり始めたのだが、あの頃、私たちは、社会党や共産党などの野党を「既成政党」と呼び、学園紛争の担い手であった全共闘は「既成政党」とは異なり、反体制闘争をやっているのだと考えていた。私の高校時代(1969年4月〜73年3月[4年間だが間違いではない])と大学時代の前半(1974年4月〜76年3月)は、中核派や革マル派といった「セクト」によって主導権を握られた「全共闘運動」が過激化し敗北していく過程だった。当時の左翼学生の多くは、「アメリカ帝国主義」や「独占資本主義」あるいは自民党政権を批判するのと同じくらい(ときにそれ以上の)力を込めて「既成政党」である社会党や共産党を批判していた。私は自身も関わった全共闘運動が敗北していく過程で感じた矛盾や問題意識を、大学時代の後半以降、ロシア政治史・法制史に投影し理論化していくことから研究をスタートさせた。

少し話が横道に逸れたので元に戻す。

私が定義する「野党」と、「反対派」ないし「反体制派」との違いは、繰り返すが、私が冒頭で、「政党とは、ある国家または地域において、当該国家または地域において定められている一定のルールに従って活動し」と書いたときの、この「一定のルール」にちゃんと従うのか、それともあまり従わない(あるいは受け入れない)のかによるのだ。もちろん、その境界線は明確ではなく、違いは相対的なものではあるが。そして明らかなように、議会に議席を持つか持たないかが、その違いではない。

 

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「北方領土引き渡す計画なし=首脳会談前にけん制−ロシア大統領」という報道について

2019年6月24日、時事通信は、「北方領土引き渡す計画なし=首脳会談前にけん制−ロシア大統領」という見出しで、以下のニュースを配信した。他社も、同様のニュースを、22日以降、配信している。

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【モスクワ時事】ロシアのプーチン大統領はロシアが実効支配する北方領土について、日本側に引き渡す計画はないとの認識を示した。国営テレビが22日放映のインタビューの内容をサイトで公開した。
 最近、取材で現地を訪れたという質問者が「子供たちはロシア国旗を掲げていた。(今後ロシア国旗を)降ろさざるを得ないということはないか」と聞くと、プーチン氏は「そのような計画はない」と応じた。
 大阪市で開かれる20カ国・地域首脳会議(G20サミット)に合わせ、29日に予定される日ロ首脳会談を前に日本側をけん制したと言えそうだ。
< https://www.jiji.com/jc/article?k=2019062200479&g=int >
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このニュースの元ネタは、テレビ局「ロシア1」の「土曜ニュース」で流されたプーチン大統領のインタビューである。6月22日に掲載された同番組ホームページからマエ説を含め、関係箇所を以下に全訳する。

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2019年6月22日11:20 セルゲーイ・ブリリョーフ
大統領は、「カラス」のせいで人々を移動させることはしない、人々に寄り添う、と発言

大統領の「ナマ中継」[訳注:大統領がテレビに生出演し、市民や地方行政首長などからの質問に答える恒例番組]はもう一度はっきりと示しました。首都の私たちは、いかなるときもロシアの地域の本当の力(と、もちろんその意思)を忘れてはいけないということを。当番組「土曜ニュース」は、新知事に関する地域シリーズをお送りしています。

私たちのロケは、南クリルがいかに美しく、そして将来性があるかということに私たちが驚かされたことについて何の誇張もなくお送りすることになると思います。私たちは、これらの島々について問題となっている日本でまもなく行われる「G20」サミット直前の極東に数日間行ってきました。

しかし、もちろんすでに6月20日にモスクワで、毎年恒例の大統領「ナマ中継」がありました。4時間にわたる国じゅうとの対話が終わったとき、大統領はジャーナリストにもまた親しく接しました。そこでの質問には日本のマスコミからのものもありました。日本に行ってどんな進展があるとお考えですか、とか。

長年の伝統で、大統領「ナマ中継」のあと、大統領に「土曜ニュース」にも来ていただきました。今回の「ナマ中継」に関して「特別のタイミング」について大統領に伺いました。

 キャスター:大統領、再度、ご挨拶申し上げます。大統領に日本に関する質問がありました。私はつい最近、南クリルに行ってきたんですが、そこで、択捉島のレイドヴォ村というところで新しい学校が開校し、アスファルトの道路ができていました。しかし、そこで村人たちは、いったい南クリルはどうなるのかとたずねていました。

 大統領:南クリルを含む大規模な極東発展プログラムがあります。すべてそれらは実現されることになるでしょう。私たちは現地のインフラの整備をするつもりです。最近、空港が開設されたことも承知しています。

 キャスター:子どもたちは国旗を掲揚していました。ロシアの。それを下げるっていうことにはならないですよね?

 大統領:ないですよ。そんな計画はありません。

(以下、年金など他の話題に移ったため省略)
< http://www.vesti.ru/doc.html?id=3160663 >
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タイトルの「カラス」は、ロシア語ではгалка 英語ではjackdawで、たいてい辞書には「コクマルガラス」という訳語があてられているが、まあ、「カラス」と訳しておいたほうがわかりやすいだろう。ここでは、生物学的に正確な学名は関係ない。この「カラス」について、あえて注釈すれば、「ぎゃぁぎゃぎゃぁと騒ぎ立てる連中」といった意味の比喩的表現、ということになる。この「騒ぎ立てるカラス」が何を指しているのかは、語るのも野暮というものだろう。もちろん、これは、このロシア語記事の筆者である「土曜ニュース」キャスターのブリリョーフの見解であって、プーチンのものではない。

さて、肝心のプーチンとの質疑についてだが、プーチンの受け応えはそっけないものだ。ブリリョーフが取材で択捉島を訪れたとき、新しい学校の開校式でもあって、生徒が国旗を掲揚したのだろう。「その国旗を下げるっていうことにはならない」、つまり、「ここが日本の領土になって、ロシア国旗が下げられて、代わりに日本の国旗が上がるっていうことはないですよね」という意図の質問なのだろう。それに対して、プーチン大統領は、「そんな計画はない」と言ったのである。

それはそうでしょう。択捉島が日本領になるなどという話は、第二次世界大戦後、ソ連、ロシアで、一度も考えられたことはないのだから。安倍総理も議論の基礎にすることに同意した1956年の日ソ共同宣言は、周知のとおり、平和条約締結後の色丹島と歯舞群島の引き渡しを言っているのであって、ソ連・ロシアは、国後島はもちろん、まして択捉島の引き渡しなんて考えもしていない。昔も今も「そんな計画はない」のである。

そして、時事通信の見出しに戻る。各社も同様の見出しを出している。プーチンに「北方領土引き渡す計画なし」。

領土返還を伴う平和条約締結交渉は、そんなに簡単にはいかないことは、最初から分かっていることです。一喜一憂することのないように。

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| about Russia | 00:46 | comments(0) | - |
政治家が「平和」を語るとき、「戦争」はないのか。また、平和を語る市民を「平和ボケ」と呼ぶことは正しいのか。
もし、政治家が、「平和」についてであれ、「戦争」についてであれ、つねに事実を語るのであれば、政治は極めて単純明快で、誰でも、起きたことについて容易に理解でき、これから起きることについて容易に予測することができる。しかし、失礼ながら、政治家が語ることは、ほとんど事実ではない。だから、政治は複雑かつ理解困難なものである。そんな複雑で理解困難な政治を理解するためにこそ、語られたことではなく、事実そのものを明らかにしていくことが重要だと思う。例えば予算、例えば人事、例えば軍備、例えば例えば・・・。
ブレジネフは1977年1月18日、「英雄都市トゥーラでの『金星』メダル授与式における演説」で大いに平和を語った。しかし、その2年11ヵ月後の1979年12月、アフガニスタンで戦争が始まった。日本を含め、西側各国は、ソ連によるアフガニスタン「侵攻」と言い、それに抗議して1980年のモスクワ五輪をボイコットした(それに対し、2018年サッカーW杯ロシア大会をボイコットした参加国はなかった。もちろん、この場合、ウクライナやクリミアで起きたことを念頭に置いている)。
ソ連のアフガニスタン「侵攻」が始まったまさにそのとき、1917年から21年までの間に、レーニンやトロツキーが「何を語ったのか」ではなく、ペテルブルクやモスクワでいったい「何があったのか」を調べて修士論文を書きあげようとしていた私は、ブレジネフのトゥーラ演説をその直後に読んでいたので、このソ連軍の「侵攻」に衝撃を受け、ソ連で、1977年から1980年までの3年間にいったい何があったのかを調べる必要があると思い、博士課程では政治史研究ではなく、同時代の研究に足を踏み入れることになった。もちろんいまは、あの3年間に何があったのかということも、アフガニスタンであったことがソ連の単なる「侵攻」ではなかったことも、私は知っている。
「平和」や「戦争」は、政治家が語る言葉で始まるわけでも終わるわけでもない。もちろん政治家の言葉は宣伝である以上、看過できないが、それは宣伝にすぎない、とも言える。
「平和」について語る人を「平和ボケ」と言う人がたまにいるが、はなはだ失敬で不遜な言い方だ。歴史的経験とその歴史的記憶(これは継承することができる)に基づいて「戦争」や「平和」について語る人は、決して「平和ボケ」ではない。私は、戦争の歴史的経験や歴史的記憶を持たない人々、世界で起きている戦争がどんなものかを想像する力のない人が語る「戦争」や「平和」こそ危ういと感じる。

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