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モスクワでの反政府デモ、許可される場合と許可されない場合

8月10日のデモについて、ロイターは「監視団体OVDインフォによると、モスクワでは245人が拘束された。サンクトペテルブルクでも集会があり、80人が拘束されたという。このほか、ロストフ・ナ・ドヌやブリャンスクなどでも少数の人が拘束された。ただ、拘束者が1000人以上に上った先週と比べ、当局の態度は軟化した。今回のデモは先週とは異なり、当局が開催を許可した。デモは大きな混乱もなく行われていたが、終了後に若者を中心に数百人が政府の建物の周辺に集まり、プーチン大統領への不満の声を上げるなどし、機動隊が出動する事態となった。」と伝えている。

< https://jp.reuters.com/article/russia-politics-protests-idJPKCN1V206T >


ロイターは、この記事で、逮捕者が少なかったことを「当局の態度」が「軟化した」ことが理由だと理解できるように書いているが、逮捕者が少なかったのは、この記事にあるように、許可されたデモだったからだ。さらに言えば、モスクワの245人の拘束は、記事では明確ではないが、おそらく終了後の「数百人が政府の建物の周辺に集ま」ったところでなされたと推測される。これは無許可だったと推測されるからだ。

では、なぜ今回はデモが許可されたのか。ここがもっとも重要だ。この重要なことをロイターは報道していない。

もし、同じ場所でのデモが、先週は無許可で、今週が許可されるなら、当局による規則の恣意的運用であり、デモの主催者側としては困る。もちろん、先週は、別のパレードの実施が決まっていて、つまり先約があるので許可できなかったなどという合理的理由があったのであれば仕方がないが、先週の無許可の理由はそういうことではなかったと推測される。その推測は、デモについてのたくさんの国内報道を丹念に調べてみることで可能となる。

先週、つまり8月3日のデモが許可されなかったのは、実施予定地がブリバール Бульварное кольцоだったからだ。ブリバールはモスクワの中心部を一周する約9キロの並木の環状道路で、1周で9キロという短さからわかる通り、クレムリンから徒歩圏内のモスクワ最中心部の、それだけに環状道路としては最重要の、だからこそ渋滞することで有名な通りだ。歩道も狭く、モスクワにある幹線道路としては狭い部類に入る。ところで、ブリバールでの実施と言っても、集合地点は、クレムリンから北に向かう放射状の幹線道路の一つであるトヴェーリ通りТверская улицаとブリバールとの交差点にあるプーシキン広場Пушкинская площадьのことが多い。プーシキン広場は、ソ連時代にマクドナルド1号店が出店したところでもあり、近くにモスクワ市役所、高級ホテル、映画館、高級ブティックなどもあり、また地下ショッピング街などもある、言ってみればモスクワの銀座四丁目というか、渋谷スクランブル交差点というか、新宿東口伊勢丹前というか、そんなところだ。ここでのデモは、ちょっと考えられない。道路交通の邪魔になることや、もともと繁華街のため、観光客や買い物客も多く、警備上の問題も多いからだ。それだけに、逆に、強行すれば、宣伝効果も大きい。実は、デモ隊が警官隊にボカスカやられている動画を見ると、このプーシキン広場付近のことが多い。

さらに遡ると、7月27日のデモが許可されなかったのは、デモの集合場所がモスクワ市議会ビル前だったからだと推測される。これも警備上の理由だ。道路も広くない。

ちなみに、デモではなく、集会であれば、プーシキン広場での実施が許可されることはある。例えば、「選挙」がらみの最初の集会だった2011年12月下院選直後の「選挙を公正に」集会は、プーシキン広場で開催された。実は、私もこれに参加したのだが、地下鉄の出口から広場までの歩道は野次馬というか群衆がびっしりで、歩道や広場は警官隊に囲まれていて、人が車道にあふれ出ないよう規制していたのを記憶している。広場での集会のため、道路交通を止めてなかったからだ。ところが、予測に反して多くの人が集まりすぎ(その大半は野次馬だったが)、ここでの集会は、参加人数の規制もかけないと危険だ、と感じた。実際、広場の入口には臨時のゲートが設けられ、広場への入場には規制がかけられていた。私は、国際選挙監視員証とパスポートを提示した上で、警備の警察官に理由を説明して入場を許可してもらった。どんどん入れたら確かに危険だ。あらかじめ参加人数を正確にコントロールできる主催者がいるとしたら、それは役所側か、しっかりした政党や団体に限られ、SNSで参加を呼び掛けるような集会やデモは参加者数の予測ができないので、プーシキン広場で集会を実施することは不可能だと思う。許可されないのは当然だと私には思える。

で、今回のデモは、サハロフ通りПроспект Академика Сахароваの、サドーヴァヤ・スパスカヤ通りСадовая-Спасская улицаの外側部分で実施された。ここでのデモの実施は、土日であれば、基本的に許可される。この通りは、前述のブリバールの外側にあるモスクワの中心から北東方向に向かう放射道路であり、片側三車線(路上駐車スペースを車道として使用すれば片側四車線)あり、歩道もかなり広く、この通りが通行止めになっても、迂回のための並行道路もある。このサハロフ通り沿いには、VEB.RF(旧ロシア外国貿易銀行)、国際投資銀行、国際経済協力銀行、アルファバンク、ロスバンクなどの巨大オフィスビルが立ち並び、小売店舗などは、ほとんどない。それだけに土日は比較的閑散とした地域だ。だから、許可されるというわけだ。

ロシアにおける「無許可デモ」で逮捕者多数との報道が繰り返され、ロシアでは集会の自由や言論の自由が抑圧されているという印象操作が行われているが、「許可」された場合の実施場所から見る限り、「無許可」は交通や警備上の都合なのではないかと推測できる。逆に言えば、政府を支持するデモや、非政治的なデモであっても、参加者数をコントロールできる政府や責任ある団体が計画したものでない限り、プーシキン広場からデモをスタートさせ、クレムリンに向かうとか、ブリバールを回るなどのデモは許可されないのではないだろうか。

ちなみに、「ロシアの日」のパレードは、トヴェーリ通りをプーシキン広場前を通過し、クレムリンに向かって進んでいるが、あれは主催者がパレードをちゃんと計画して準備したもので、パレード参加者はあらかじめ決まっており、SNSで参加を呼び掛けるようなものではないからだ。

市民運動やNPOなどの発展は、市民社会の成熟にとって欠かせない。憲法に定められている、デモや集会、言論や表現の自由などの基本的人権は最大限保障されなければならない。しかし、それは社会を不安に陥れたり、混乱を招くものであっては、かえってマイナスだろう。デモや集会の実施も、安全や他者の権利を損なうことのないよう(ここでの議論に照らせば、デモ参加者やそれ以外の一般市民の安全を確保し、道路交通の妨げにならないようにすることを)配慮して行われなければならないだろう。

 

 

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ロシア政治における「野党」と「反対派(反体制派)」

現在のロシア下院に議席を有する「統一ロシア」、ロシア連邦共産党、ロシア自由民主党、「公正ロシア」などのうち、与党「統一ロシア」以外の3党は、野党と言えるのだろうか、いや野党とは言えない、という意見を目にすることがある。

しかし、私は、ロシア連邦共産党、ロシア自由民主党、「公正ロシア」は、「野党」であると考えている。その理由は、以下の通りである。

本来は、ロシア連邦共産党、ロシア自由民主党、「公正ロシア」などは野党とは言えない、という意見の前提となっている「政党」や「野党」の定義は何か、といったことから議論を始めるべきなのだが、こうした意見が主張される際に、「政党」や「野党」の定義がなされているのを見たことがないので(それほど、網羅的にこうした意見を調べたわけではないが)、とりあえず、ここでは私の見解を一方的に主張するにとどめる。

私は、「政党」および「野党」を、とりあえずは、以下のように定義している。

「政党」とは、ある国家または地域において、当該国家または地域において定められている一定のルールに従って活動し、その党員および支持者が、選挙および議会活動を通じて、また選挙によって行政首長の職を得ることを通じて、立法および行政において、自党の政策を実現しようとする政治活動家の集団である。

「野党」とは、上記の定義の「政党」のうち、選挙によって行政首長のポストを占めることができなかった政党、および議院内閣制においては議会によって形成される政府の閣僚ポストをその党員および支持者によって占めることができなかった政党である。

私は、これらの定義に基づいて、現在、ロシア連邦共産党、ロシア自由民主党、「公正ロシア」は、「野党」であると考えている。

私の推測だが、ロシア連邦共産党、ロシア自由民主党、「公正ロシア」は、野党とは言えない、という意見が主張されるのは、これら3党が、プーチン大統領に本気で反対していない、プーチン大統領が構築した現在のロシアの権威主義的あるいは「強権的」体制に反対していない、あるいはその体制に反対しないどころか、その体制に乗っかって与党「統一ロシア」の食べ残したパイの残滓にありつこうとしている、と考えているからではないだろうか。

上記の政党の定義において、私は、「ある国家または地域において、当該国家または地域において定められている一定のルールに従って活動し」と述べた。この「一定のルール」は、明示的なもの、つまり憲法や法律などだけを意味するのではなく、いわば「暗黙のルール」も含む。「暗黙のルール」は、「暗黙」なだけに曖昧だし、文字通り暗黙のうちに変化する。「空気を読む」と言うときの「空気」のようなものである。この「暗黙のルール」を含めて、この「一定のルール」は、ときに、ざっくりと「体制」と言われることがある。つまり、そもそも政党は、野党も含めてこの「体制」に従う(受け入れる)、あるいはこの「体制」に乗っかったものである。まあ、「乗り方」にも多様性があるから、曖昧な部分はあるが。

で、日本の暗黙のルールって、どんなものか。例えば、「米国の核の傘の下にいる現状をとりあえず受け入れること」だったり、「自由と民主主義を標榜する諸国の一員だと主張すること」だったり、「自由競争と市場経済をとりあえず肯定すること」だったりするのだろう。まあ政党論にはあまり関係ないが、わかりやすい例を挙げると、雅子「さま」とか、愛子「さま」とか言ったり書いたりする、なんてのも、憲法や法律では決められていないから、暗黙のルールなんだろう。もちろん、「我が党は米国との軍事同盟から脱し、中立日本を目指します」と主張している政党があることは承知している。だから、「核の傘」や「市場経済」のくだりで、「とりあえず」と書いたのである。まあ、日本政治の場合は、米国との関係が多分もっとも重要なことだろう。現状の日米関係をキョヒる、あるいは根本的に覆そうとすると、日本で、政治家としてやっていくのはかなりキツいだろう。少なくとも、組織として守ってもらえないと、かなりキツい。

さて、ロシアの「暗黙のルール」には、どんなものがあるのだろう。多分、日本とは逆の意味で、やはり米国(あるいは「西側」)との関係は重要だろう。今のロシア政治では、外交の文脈で「親米」とか「米国との全面的な協調・協力」とかを主張すると、政治家としてはかなりキツい。個別政策で言えば、例えば、「クリミア併合は間違った政策だ」と言うのもアウトだろう。国内政治の文脈では、国民の68%(最新のレバダセンターの調査)がその活動を肯定しているプーチンを侮辱するのが、いちばんキツい。もちろん、コアな支持を得ようとするならOKだし、欧米のメディアが喜んで飛びつくので、一定の需要はあるが。

で、ロシアでも日本でも、体制を根底から批判する、いわば「ちゃぶ台返し」は、もはや「野党」として許容されず、「反対派」ないし「反体制派」となる(ただし、ソ連政治における「反体制派」が特定の意味を持っていたので、その発想から抜けきらない状態で、ロシア政治の文脈で「反体制派」という用語を用いるのは誤解を招く可能性があり、慎重である必要がある)。

この「反対派」ないし「反体制派」だけを「野党」と言うべきだと主張すると、日本の国会に議席を有する野党のほとんど(またはすべて)は「野党」ではないし、現在の米国の民主党も英国の労働党も「野党」ではない、ということになる。ロシア史に当てはめて考えてみれば、帝政期の下院に議席を有する政党はほとんどすべて「野党」ではなく、「野党」はボリシェヴィキとエスエル左派だけということになる。

このような議論をしていると、思い出すのは、1960年代末期の全共闘運動(学園紛争)全盛期の頃のことである。私は、学園紛争のために東大入試が中止となった翌月の4月に、高校に入学した。従って、私は、高校生から学園紛争に関わり始めたのだが、あの頃、私たちは、社会党や共産党などの野党を「既成政党」と呼び、学園紛争の担い手であった全共闘は「既成政党」とは異なり、反体制闘争をやっているのだと考えていた。私の高校時代(1969年4月〜73年3月[4年間だが間違いではない])と大学時代の前半(1974年4月〜76年3月)は、中核派や革マル派といった「セクト」によって主導権を握られた「全共闘運動」が過激化し敗北していく過程だった。当時の左翼学生の多くは、「アメリカ帝国主義」や「独占資本主義」あるいは自民党政権を批判するのと同じくらい(ときにそれ以上の)力を込めて「既成政党」である社会党や共産党を批判していた。私は自身も関わった全共闘運動が敗北していく過程で感じた矛盾や問題意識を、大学時代の後半以降、ロシア政治史・法制史に投影し理論化していくことから研究をスタートさせた。

少し話が横道に逸れたので元に戻す。

私が定義する「野党」と、「反対派」ないし「反体制派」との違いは、繰り返すが、私が冒頭で、「政党とは、ある国家または地域において、当該国家または地域において定められている一定のルールに従って活動し」と書いたときの、この「一定のルール」にちゃんと従うのか、それともあまり従わない(あるいは受け入れない)のかによるのだ。もちろん、その境界線は明確ではなく、違いは相対的なものではあるが。そして明らかなように、議会に議席を持つか持たないかが、その違いではない。

 

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「北方領土引き渡す計画なし=首脳会談前にけん制−ロシア大統領」という報道について

2019年6月24日、時事通信は、「北方領土引き渡す計画なし=首脳会談前にけん制−ロシア大統領」という見出しで、以下のニュースを配信した。他社も、同様のニュースを、22日以降、配信している。

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【モスクワ時事】ロシアのプーチン大統領はロシアが実効支配する北方領土について、日本側に引き渡す計画はないとの認識を示した。国営テレビが22日放映のインタビューの内容をサイトで公開した。
 最近、取材で現地を訪れたという質問者が「子供たちはロシア国旗を掲げていた。(今後ロシア国旗を)降ろさざるを得ないということはないか」と聞くと、プーチン氏は「そのような計画はない」と応じた。
 大阪市で開かれる20カ国・地域首脳会議(G20サミット)に合わせ、29日に予定される日ロ首脳会談を前に日本側をけん制したと言えそうだ。
< https://www.jiji.com/jc/article?k=2019062200479&g=int >
***********

このニュースの元ネタは、テレビ局「ロシア1」の「土曜ニュース」で流されたプーチン大統領のインタビューである。6月22日に掲載された同番組ホームページからマエ説を含め、関係箇所を以下に全訳する。

***********
2019年6月22日11:20 セルゲーイ・ブリリョーフ
大統領は、「カラス」のせいで人々を移動させることはしない、人々に寄り添う、と発言

大統領の「ナマ中継」[訳注:大統領がテレビに生出演し、市民や地方行政首長などからの質問に答える恒例番組]はもう一度はっきりと示しました。首都の私たちは、いかなるときもロシアの地域の本当の力(と、もちろんその意思)を忘れてはいけないということを。当番組「土曜ニュース」は、新知事に関する地域シリーズをお送りしています。

私たちのロケは、南クリルがいかに美しく、そして将来性があるかということに私たちが驚かされたことについて何の誇張もなくお送りすることになると思います。私たちは、これらの島々について問題となっている日本でまもなく行われる「G20」サミット直前の極東に数日間行ってきました。

しかし、もちろんすでに6月20日にモスクワで、毎年恒例の大統領「ナマ中継」がありました。4時間にわたる国じゅうとの対話が終わったとき、大統領はジャーナリストにもまた親しく接しました。そこでの質問には日本のマスコミからのものもありました。日本に行ってどんな進展があるとお考えですか、とか。

長年の伝統で、大統領「ナマ中継」のあと、大統領に「土曜ニュース」にも来ていただきました。今回の「ナマ中継」に関して「特別のタイミング」について大統領に伺いました。

 キャスター:大統領、再度、ご挨拶申し上げます。大統領に日本に関する質問がありました。私はつい最近、南クリルに行ってきたんですが、そこで、択捉島のレイドヴォ村というところで新しい学校が開校し、アスファルトの道路ができていました。しかし、そこで村人たちは、いったい南クリルはどうなるのかとたずねていました。

 大統領:南クリルを含む大規模な極東発展プログラムがあります。すべてそれらは実現されることになるでしょう。私たちは現地のインフラの整備をするつもりです。最近、空港が開設されたことも承知しています。

 キャスター:子どもたちは国旗を掲揚していました。ロシアの。それを下げるっていうことにはならないですよね?

 大統領:ないですよ。そんな計画はありません。

(以下、年金など他の話題に移ったため省略)
< http://www.vesti.ru/doc.html?id=3160663 >
*************

タイトルの「カラス」は、ロシア語ではгалка 英語ではjackdawで、たいてい辞書には「コクマルガラス」という訳語があてられているが、まあ、「カラス」と訳しておいたほうがわかりやすいだろう。ここでは、生物学的に正確な学名は関係ない。この「カラス」について、あえて注釈すれば、「ぎゃぁぎゃぎゃぁと騒ぎ立てる連中」といった意味の比喩的表現、ということになる。この「騒ぎ立てるカラス」が何を指しているのかは、語るのも野暮というものだろう。もちろん、これは、このロシア語記事の筆者である「土曜ニュース」キャスターのブリリョーフの見解であって、プーチンのものではない。

さて、肝心のプーチンとの質疑についてだが、プーチンの受け応えはそっけないものだ。ブリリョーフが取材で択捉島を訪れたとき、新しい学校の開校式でもあって、生徒が国旗を掲揚したのだろう。「その国旗を下げるっていうことにはならない」、つまり、「ここが日本の領土になって、ロシア国旗が下げられて、代わりに日本の国旗が上がるっていうことはないですよね」という意図の質問なのだろう。それに対して、プーチン大統領は、「そんな計画はない」と言ったのである。

それはそうでしょう。択捉島が日本領になるなどという話は、第二次世界大戦後、ソ連、ロシアで、一度も考えられたことはないのだから。安倍総理も議論の基礎にすることに同意した1956年の日ソ共同宣言は、周知のとおり、平和条約締結後の色丹島と歯舞群島の引き渡しを言っているのであって、ソ連・ロシアは、国後島はもちろん、まして択捉島の引き渡しなんて考えもしていない。昔も今も「そんな計画はない」のである。

そして、時事通信の見出しに戻る。各社も同様の見出しを出している。プーチンに「北方領土引き渡す計画なし」。

領土返還を伴う平和条約締結交渉は、そんなに簡単にはいかないことは、最初から分かっていることです。一喜一憂することのないように。

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| about Russia | 00:46 | comments(0) | - |
政治家が「平和」を語るとき、「戦争」はないのか。また、平和を語る市民を「平和ボケ」と呼ぶことは正しいのか。
もし、政治家が、「平和」についてであれ、「戦争」についてであれ、つねに事実を語るのであれば、政治は極めて単純明快で、誰でも、起きたことについて容易に理解でき、これから起きることについて容易に予測することができる。しかし、失礼ながら、政治家が語ることは、ほとんど事実ではない。だから、政治は複雑かつ理解困難なものである。そんな複雑で理解困難な政治を理解するためにこそ、語られたことではなく、事実そのものを明らかにしていくことが重要だと思う。例えば予算、例えば人事、例えば軍備、例えば例えば・・・。
ブレジネフは1977年1月18日、「英雄都市トゥーラでの『金星』メダル授与式における演説」で大いに平和を語った。しかし、その2年11ヵ月後の1979年12月、アフガニスタンで戦争が始まった。日本を含め、西側各国は、ソ連によるアフガニスタン「侵攻」と言い、それに抗議して1980年のモスクワ五輪をボイコットした(それに対し、2018年サッカーW杯ロシア大会をボイコットした参加国はなかった。もちろん、この場合、ウクライナやクリミアで起きたことを念頭に置いている)。
ソ連のアフガニスタン「侵攻」が始まったまさにそのとき、1917年から21年までの間に、レーニンやトロツキーが「何を語ったのか」ではなく、ペテルブルクやモスクワでいったい「何があったのか」を調べて修士論文を書きあげようとしていた私は、ブレジネフのトゥーラ演説をその直後に読んでいたので、このソ連軍の「侵攻」に衝撃を受け、ソ連で、1977年から1980年までの3年間にいったい何があったのかを調べる必要があると思い、博士課程では政治史研究ではなく、同時代の研究に足を踏み入れることになった。もちろんいまは、あの3年間に何があったのかということも、アフガニスタンであったことがソ連の単なる「侵攻」ではなかったことも、私は知っている。
「平和」や「戦争」は、政治家が語る言葉で始まるわけでも終わるわけでもない。もちろん政治家の言葉は宣伝である以上、看過できないが、それは宣伝にすぎない、とも言える。
「平和」について語る人を「平和ボケ」と言う人がたまにいるが、はなはだ失敬で不遜な言い方だ。歴史的経験とその歴史的記憶(これは継承することができる)に基づいて「戦争」や「平和」について語る人は、決して「平和ボケ」ではない。私は、戦争の歴史的経験や歴史的記憶を持たない人々、世界で起きている戦争がどんなものかを想像する力のない人が語る「戦争」や「平和」こそ危ういと感じる。

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| comments | 03:52 | comments(0) | - |
イヴァーン・ガルノーフ事件の顛末について

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ロシアのニュースサイト『メドゥーザ』調査部記者のガルノーフ氏が、麻薬販売・製造容疑で、2019年6月6日に、内務省により拘束されたことに対し、6月10日、ロシアの『ヴェードモスチ』紙、『コメルサント』紙、『RBK(ロスビジネスコンサルティング)』紙の編集部が、以下のような共同声明を出した。

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イヴァーン・ガルノーフ事件についての『ヴェードモスチ』『コメルサント』『RBK(ロスビジネスコンサルティング)』編集部の共同声明(『コメルサント』2019年6月10日付第99号第1面)

6月6日、麻薬密売および製造の容疑で、ガルノーフ『メドゥーサ』調査部記者が拘束された。

私たちは、ガルノーフ氏に対し、裁判所が、拘置所における拘留ではなく、より適切な自由制限処分(訳注)を選択したことを歓迎する。

それとともに私たちは、取り調べによって示されたガルノーフ氏の有罪の証拠が説得力のあるものとは見なしていないし、彼の拘束の事情は、取り調べに際し法律違反はなかったということについて大きな疑念を喚起するものである。

私たちは、ガルノーフ氏の拘束とそれに続く逮捕が彼の職務上の活動と関連しているということがあり得ないわけではないと考えている。

私たちは、ガルノーフ氏の拘束に関与した内務省職員の行為が法律に合致したものであるかどうか詳細に検証することを要求し、その検証の資料をメディアに提供することを主張する。

私たちは法保護機関が法律を厳守することを期待し、取り調べの際の最大限の透明性を要求する。私たちは、取り調べの過程を注視するつもりであり、関連諸団体がこれに加わるよう呼びかけるものである。

私たちは、この要求が実現されることが、ロシアのジャーナリスト界にとってだけでなく、ロシア社会全体にとっても、極めて重要なものであると考えている。

( https://www.kommersant.ru/doc/3997789#id1758592 )

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訳注:ここでいう「自由制限処分」меры пресеченияが具体的に何を意味するかは明確ではないが、ロシアの刑事訴訟手続きでは、自由制限処分には、移動の禁止、自宅拘禁、保証金供託、拘留処分などがあり、ここでは、「拘置所における拘留ではなく」とあるので、被疑者であるガルノーフ氏を拘留せず、居所を離れないこと、居所を捜査当局に明示することなどを誓約させた上で、取り調べや捜査をおこなう措置をとったことをいうのではないかと考えられる。このことは、ガルノーフ氏が「釈放」されたとか、「自宅軟禁」といった報道と合致しているが、共同声明の出された6月10日時点で、ガルノーフ氏の逮捕は誤認であったことが認められたわけではない。また、ロシアの刑事訴訟手続きでは、現行犯逮捕の場合でも、逮捕後12時間以内に検察官に書面による報告がおこなわれ、拘留には裁判所の決定が必要であるが、上記の共同声明にあるように、共同声明の出た段階では、裁判所がガルノーフ氏の逮捕・拘留を許可しなかった、ということに過ぎない。もっとも、麻薬販売製造の容疑である以上、裁判所が逮捕・拘留を許可しなかったというのは、麻薬を販売・製造した証拠、あるいは麻薬それ自体が本人周辺から出てこなかったのではないかと推測される。

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12日、この共同声明に呼応したものかどうかはわからないが、この事件をとりあげて当局を批判する反政府活動家のナヴァリヌイ氏の呼びかけた無許可デモがモスクワ市内でおこなわれ、無許可デモの参加者のうち数百人(500人という報道もある)が拘束された。このことのほうが、日本のメディアでは大きく報道された。「反プーチンデモで逮捕者多数」と。

ちなみに、上記10日付の共同声明にあるように、10日の時点で、すでにガルノーフ氏の逮捕・拘留は裁判所によって不許可となっている。従って、10日付の共同声明や12日のデモの結果によって、ガルノーフ氏が釈放されたわけではない。

さらに、無許可デモ参加者に対する拘束について注釈すると、一般的に無許可デモ参加者の拘束は一時的なもので、すぐに釈放される。無許可デモ参加者が拘束されるのは、そのデモの主張やスローガンとは関係なく、デモが無許可であることによる。従って、無許可デモで拘束者が多数出るのは、そのことだけでは言論弾圧とは言えない。日本的にいえば、道路交通法違反といったことである。モスクワ市では往来の激しい都心部でのデモは一般に許可されない。

さて、その後の日本の報道によると、デモのおこなわれた12日の前日の11日、ガルノーフ氏の「自宅軟禁」が解かれ、証拠写真に撮られた麻薬はガルノーフ氏の自宅にあったものではなかったとして、内務大臣がこの事件を担当した所轄の署長と担当のモスクワ警察の麻薬取締班の責任者の解任を要請し、デモの翌日の13日に、プーチン大統領が彼らを解任する大統領令に署名した、という (AFP=時事 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190614-00000041-jij_afp-int )。

ジャーナリストのガルノーフ氏は警察から反感をかっていてその報復だったのではないかといった見解が出ているが、詳しい事情は分からない。しかし、でっちあげによる冤罪だったことは確かなようだ。

日本のメディアは、この事件そのものではなく、12日の抗議デモを大きく取り上げ、「市民の間に激しい怒りが巻き起こり、ロシア社会に連帯を訴える前例のない抗議運動に発展」( 上記、AFP=時事 )などとしているが、12日の抗議デモ参加者は、ロシア内務省による数字としてロシア国内で報道されている数字では1,600人だが、「1000人あまり」(ロイター  https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190613-00000069-reut-asia )という報道もあり、いずれにせよ、「市民の間に激しい怒りが巻き起こり、ロシア社会に連帯を訴える前例のない抗議運動に発展」という報道は「盛り過ぎ」だろう。

日本や欧米のメディアが、ロシアに関して、何かというと「抗議デモ」「逮捕」「言論弾圧」といった流れに大きく飛びつくことが、私はとても気になる。

この事件についていえば、解任された所轄の署長と担当した麻取の責任者の動機が気になるし、ガルノーフ氏の仕事も気になる。そして極めつけは、ガルノーフ氏が逮捕された6月6日のわずか1週間後の13日には、大統領が、所轄の署長と担当の麻取を証拠偽造により解任してしまうという、猛烈なスピード感だ。

振り返って日本では、あの森友学園事件に関して公文書改竄にかかわったとされる2016年当時の財務局長は、その後、国税庁長官に出世したあと、厳しい批判を前にして依願退職(免職ではないから、ちゃんと退職金ももらえるし、その後もちゃんと仕事を続けられる)したことや、あのときに流行った「忖度」という言葉を思い出したりすると、日本はどうなの?と言いたくなる。

ちなみに、日本の報道の自由については、来る6月24日に、国連人権委員会に、「放送番組の『政治的公平』などを定めた放送法4条の撤廃、平和的な集会や抗議活動の保護など9項目が履行されていない」とする追加報告書が提出されることになっている。この件(日本の報道の自由など)については、また別の機会に、コメントしたい。

| about Russia | 19:37 | comments(0) | - |
なくならない自動車事故、進む地球温暖化
4月頃から、高齢者による自動車事故の報道が多くなされ(実際に高齢者による重大事故が多いかどうかは統計的な分析が必要)、それに関連していろいろな議論がなされているが、自動車には、高齢者に限らず、運転操作を誤ったり、信号・速度制限・交通法規の無視・違反、積載量超過、飲酒運転、運転者の急病などにより、自損だけでなく、対人・対物事故を起こす危険性がつねにある。
また、自動車は、例え、ハイブリット車であっても、ガソリンを燃焼させているときは排ガスにより大気を汚染し、地球温暖化の原因の一つとなっている。
すでに1992年頃(38歳の頃)に、私はそのことを強く意識するようになり、車を運転しないことに決めた。
とはいえ、それまでは、車の運転をよくしていた。
免許取得は大学生だった1975年(22歳)で、27歳で結婚して実家を出るまで、実家が不便な丘陵地にあったため、主として母親の買い物のために車を運転していた。
結婚後しばらくは経済的余裕がなく、車を持たないまま月日が過ぎた。
しかし、36歳のときに在ソ連大使館勤務となり、仕事で車が必要と言われたため(住んでいたアパート自体はリガ駅から5分くらいのところだったのだが)、赴任前に車を発注し、着任後すぐに車で通勤する日常が始まった。
だが、1992年の帰国後は、上に述べた理由で車を運転したことはほとんどない。
もちろん、他人の運転する車(バスやタクシーなど)に乗らないわけではないし、電車も、大半はどこかで何かを燃焼させてつくった電気エネルギーで動いている以上、環境に負荷をかけていることは事実だが、個人が自動車を走らせるよりは、はるかに1人あたりのつくり出す負荷は小さい。だから、環境への負荷がより小さいハイブリッド車、そしてさらに電気自動車へと移行していくのは正しい(もっとも、私はハイブリッド技術はかえって電気自動車の開発・普及の妨げになったという意味で否定的だが)。
しかし、例え、環境負荷の小さなエネルギーで動くようになっても、自動車が事故を起こさなくなるわけではない。事故防止は別の技術だからだ。もちろん、その技術開発も進んでいることは承知しているが、個人が運転し自由に(言葉の本来の意味で無軌道で)走行することができる自動車に「乗らない」という選択肢を考える必要があるのではないか。
自動車産業は、日本の主要産業の一つで、日本経済に占める自動車産業の比率は大きく、日本政府は、日本の自動車産業の衰退につながるアイデアを採用することは考えられないが、エネルギー政策や産業政策の転換という大きな視点で自動車を考え直す時期に来ていると思う。それは、高齢者の事故が多いと感じさせる報道があるからではなく、あいかわらず自動車事故がなくならず、さらに致命的な地球温暖化が進んでいるからだ。

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丸山衆議院議員発言について

日本国憲法第9条は、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とし、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と定めています。

また、日本国憲法第99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と定めています。

従って、以下のような発言をする国会議員は罷免されるべきだと思います。国会議員は、間違った発言をしても、謝罪すれば許される、というのは正しくないと思います。そもそも、このような発言をする人物が国会議員であることは、認められないと思います。
 
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 丸山穂高衆議院議員は11日、現地で島返還の手段として戦争を持ち出し、元島民らから抗議を受けていました。
 同行した記者が録音した丸山議員の音声です。
 丸山議員音声「戦争でこの島を取り返すことは賛成ですか?反対ですか?」
 団長「戦争で?」
 丸山「ロシアが混乱しているときに取り返すのはOKですか?」
 団長「戦争なんて言葉は使いたくないです。使いたくない」
 丸山「でも取り返せないですよね?」
 団長「いや、戦争はすべきではない」
 丸山「戦争しないとどうしようもなくないですか?」 
 団長「いや、戦争は必要ないです」

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日露関係にも悪影響を及ぼすと思います。

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11月15日の日露首脳会談

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11月16日のTOKYO FM 7:00からのWAKE UP NEWSでのやりとりは、以下の通り。

速水(以下Q):安倍総理は、おととい、ロシアのプーチン大統領と23回目となる会談を行い、1956年の「日ソ共同宣言」を基礎に平和条約交渉を加速させる方針で合意しました。これによって、北方領土問題は今後、どう進んでいくのでしょうか。今年9月、プーチン大統領が、「前提条件なし」で平和条約を締結しようと提案しました。これに、日本がどう対応するかに注目が集まっていましたが、安倍さんは、今回、プーチンさんの提案に、一つの回答を出したということでしょうか?

上野(以下A):安倍首相が、「56年の日ソ共同宣言を基礎に」と発言したことは、安倍首相がプーチン大統領に歩み寄るかたちで新たな一歩を踏み出した、ということだと思います。というのは、もともと「1956年の日ソ共同宣言を基礎に」というのはプーチン大統領の持論だったからです。

Q:さて、1956年の「日ソ共同宣言」を基にして、平和条約交渉を進めるということですが、改めて伺います。この「日ソ共同宣言」とは、どんなものなんですか?

A:「日ソ共同宣言」というのは、第2次世界大戦末期のソ連の対日参戦により途絶えていた日ソ間の国交を回復した外交文書で、日ソ両国の議会も批准した、戦後の日ソ・日露間で最も重要な外交文書です。
実は、日ソ共同宣言は、もともと、歯舞諸島と色丹島を日本に引き渡すことを条件に平和条約として締結されるはずでした。当時、日本政府は、国後島と択捉島は、1951年のサンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島に含まれていると考えていたので、ソ連に対しては歯舞諸島と色丹島の返還を要求していただけでした。
他方、ソ連は、朝鮮戦争後の米ソ冷戦下にあって、日本の要求に応じて平和条約を締結し、日本と友好関係を築くことが国益にかなうと考えていました。
だから、すぐにでも平和条約は締結できるはずだったのですが、米国が日ソ平和条約締結に強く反対したため、日本政府は平和条約の締結をあきらめなくてはならなくなりました。
そこで、日本政府は、国交正常化だけをめざす方針に切り替え、交渉の末、日ソ共同宣言が調印されました。だから、この共同宣言に、平和条約締結後に歯舞諸島と色丹島を日本に引き渡すと書かれているのです。
その後日本政府は、サンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島には国後島と択捉島は含まれないという立場に移行し、2島返還から4島返還に要求を格上げしました。そのため、日ソ間の立場の隔たりは大きくなり、平和条約締結の可能性は遠のきました。

Q:日本政府は、これまで一貫して「4島一括返還」を主張してきましたが、その方針を変えた、ということでしょうか?

A:いいえ、違います。安倍首相は、一貫して、「4島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する」と主張してきました。「4島一括返還」を主張していません。
「4島の帰属の問題を解決する」ということと、「4島返還で問題を解決する」ということ、まして「4島一括返還」とは、まったく違います。このことをマスコミも含め多くの人が誤解しています。
「4島の帰属の問題を解決する」ときの解決方法は、4島返還、面積折半、3島返還、2島返還など、いろいろな解決方法があり得ます。もちろん、日本にとって、最も望ましいのは4島返還ですが、「4島の帰属の問題を解決して」と言っているのは、必ずしも4島返還だけが唯一の答えではない、という含みを持たせているのです。そうでないと、ロシア側が交渉のテーブルにつかないからです。
その上で、安倍首相は、「56年の日ソ共同宣言を基礎にして」と発言したのです。日本側が、この考えを主張したのは、大きな変化です。ひょっとしたら、安倍首相は、歯舞諸島と色丹島の2島返還と、国後島と択捉島の継続協議を条件に、平和条約を締結しようという考え方を持っているのかも知れません。

Q:対するロシアは、どんな風に考えているのでしょうか?

A:ロシアは、欧米との関係があまりうまくいっていないこともあって、日本との友好的な関係を築きたいと考えています。また、ロシア国民の多くは、日本人に好意を持っているので、プーチン大統領は、日本との友好関係を築くことができると考えています。とはいえ、現にロシア国民が長年にわたって住んでいる領土の返還交渉は簡単なことではありません。プーチン大統領やロシア外務省は、56年の共同宣言を基礎にと言いながらも、いろいろ注文をつけてきています。

Q:また、プーチンさんは、日本に引き渡した島がアメリカ軍の拠点になるのではないか、ということに神経を尖らせているようですね。

A:これは、牽制球のようなもので、気にすることはありません。そもそも平和条約が締結されて、島が返還されるというのは、日露間にそれなりの友好信頼関係が築かれているということです。そのような友好信頼関係にある2国間の国境線近くの島に相手国を敵視する重武装の軍隊を置くというのはありえません。ですから、当然、平和条約締結交渉の過程で、信頼醸成措置として、「最低限の国境警備隊、日本側は海上保安庁を置くだけで、本格的な米露の軍隊や自衛隊は、国境線近くには置かない」といったことを取り決めることになるのではないかと思います。

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1917年11月7日の出来事について再び

ロシア連邦共産党の党員たちが赤旗をなびかせて行進している場面を撮した写真は日本の新聞でも今朝の朝刊に比較的大きく掲載されていましたが、共産党が11月7日を記念して祝うのは当然ですし、彼らのraison d'etreでもあります。しかし、私は、そのことではなく、現在のロシア政府と少なくない国民が11月7日について沈黙していること、それに比べて日本では学会などを中心に「ロシア革命100年」行事があちこちでおこなわれていること、そのことが興味深いことだと思っています。

私は1995年に共著で出版した『CIS[旧ソ連地域]』(自由国民社)という本の中で、1917年11月7日の出来事を記述した節のタイトルを「ボリシェヴィキの権力奪取」とし、「10月24〜25日、いまやボリシェヴィキが多数派となったペトログラード・ソビエトに忠誠を誓う首都の守備隊と武装した労働者は、ボリシェヴィキの指揮下に、臨時政府に対するクーデターを決行し、政府は崩壊した」と書きました。

すると、多くの先輩たちから、「あれは革命であってクーデターではない。君は十月革命の歴史的意義を貶めるのか」と叱責を受けました。

私は、当時すでに、ロシア革命、すなわちロシアの体制転換は、1917年2月(ユリウス暦)に始まり1922年12月のソ連建国に終わるプロセスであって、1917年10月24日の深夜から25日の早朝にかけてペトログラートで起きたことは、全体としては少数派であったボリシェヴィキが政権を奪取した(それをクーデターという)、それゆえその後、他党派を抑圧せざるを得ず、内戦に至ることになったのだと考えていましたから、その批判は覚悟の上で、日本において書かれたロシア政治史の本で、おそらく初めて「十月革命」ではなく「クーデター」と書いた本を出したのです。

もちろん私がその考えに至ったのには、学生時代からの研究の結果でもありますが、何よりも、1990〜92年のモスクワ在勤中にロシア人たちとともに、ソ連共産党の権威が失墜し、ソ連国家が崩壊していくのを目の当たりにし、それとともにロシア人たちが学んできた歴史そのものが目の前で崩壊していく、それを一緒に見ていたからです。そして、それまでもそうでしたが、なお一層強く思ったのは、歴史をあれこれと評価するのではなく、起こった事実そのものをきちんと見極めていくことが大切だということでした。

ちなみに、その意味では、その後さらに学んだことですが、11月7日の臨時政府の崩壊は、武装蜂起した労働者と兵士たちが、臨時政府の首脳たちが集まっていた冬宮(エルミタージュ)に突撃していくというエイゼンシュテインの描いた映画とはまったく異なり、秘密工作部隊が無防備の宮殿を制圧し、臨時政府の閣僚を逮捕していく静かなクーデターであったことを知ったことは重要なことでした。11月7日の出来事を、労働者と兵士の華々しい武装蜂起だったという「神話」に祭り上げたのは、ボリシェヴィキによるクーデターを「革命」にしたかったボリシェヴィキ自身だったのです。

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11月7日って?

今日は2017年11月7日。

100年前の1917年に、いわゆる「ロシア革命」が起きたことから、今年は「ロシア革命100年」と銘打ったシンポジウムや講演会が数多く開催されている。

そしてとくに、今日、11月7日は、100年前の1917年11月7日にロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ派)が武装蜂起によって臨時政府を打倒し、ボリシェヴィキ派の指導者であったレーニンを首班とする「臨時労農政府」が成立した「大十月社会主義革命」が起きた日であることから、ロシア革命100周年にあたる今年の中でも最も重要な日と考える人がいるかも知れない。

(ところで、11月7日に起きた出来事を「十月革命」と言うのは、1917年当時のロシアでは、現在の西暦であるグレゴリウス暦よりも20世紀では12日遅いユリウス暦が使用されており、ロシアではその日は10月25日であったからである。)

確かに、ソ連時代、この日は、「大十月社会主義革命」記念日として、赤の広場に面するグム百貨店には、マルクスやレーニンの巨大な肖像画が飾られ、赤の広場を挟んでその向かい側のレーニン廟の上にはソ連共産党中央委員会書記長以下の党幹部が、そしてレーニン廟の両側にあるひな壇には外国外交団を含む数多くの招待者が並ぶ前で、華々しく軍事パレードが行われるという、1年の中でも最も重要な祝祭日であった。

それはもちろん、ソ連共産党がロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ派)の後身であり、ソ連、正式にはソヴィエト社会主義共和国連邦が、1917年11月7日に成立した臨時労農政府を中心とするロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国の後身国家であったからである。つまり、1917年11月7日は、ソ連のいわば建国の日だったわけである。

しかし、現在のロシアでは、11月7日は、ただのなんでもない日である。それは、現在のロシア政府も、また少なからず国民も、この日が祝うべき記念日であるとは考えていないからである。

「革命」を体制転換と定義すれば、確かに1917年に、ロシアは、立憲君主制から共和制へと移行したのであるから、1917年は革命の年であったと言うことはできよう。しかし、実際の革命は、第1次世界大戦中の1917年3月に立憲君主制のロシア帝国が崩壊して臨時政府が成立したことに始まり、ロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ派)のクーデターを契機とした内戦を経て、1922年12月30日にソ連(正式には、ソヴィエト社会主義共和国連邦)の成立に至るまでの、ほぼ6年間にわたる連続的なプロセスであったと言える。したがって、11月7日は、その革命のプロセスの一つの転機になったことは確かであるが、悲惨な内戦の契機となったという意味でも、またその後に成立したソ連体制の、とりわけスターリン体制に対する歴史的評価という意味でも、現在のロシア国民が11月7日を心から祝う気持ちになれないのは当然であろう。

この時期、現在のロシアでは、11月4日が「国民統一の日」という祝祭日になっているが、7日は、ただ通り過ぎていくだけの日になってしまっている。

 

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