RUSSIAN POLITICS / UENO'S SEMINAR
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このブログの管理人(上野俊彦)の見解は管理人個人のものであり、管理人の所属する上智大学を代表するものではありません。
広告は管理人および管理人の所属する上智大学とは無関係です。掲載されている写真はとくに断りがない限り管理人が撮影したものです。

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帰国へ
9月8日(金)、カリーニングラート11:25分発の飛行機で、モスクワに戻る予定でした。前日のうちにカリーニングラート南駅(写真下)にあるバスターミナルに行って、空港行きのバスの時刻表を調べておきました。ホテル前ではなく、バスターミナルまで来て、ここから空港行きのバスに乗った方がよさそうです。

南駅に行ったついでに、この街の名前の由来となっているカリーニン像を見ました(写真左)。

8日の朝、ホテルの前の道路がいつも混んでいるので、余裕を見て、8時にチェックアウトしました。あいにく外はひどい雨です。ホテルの前の横断歩道を渡り、道路の反対側のバス停、つまり最初に私が降りたバス停から、バスターミナル行きのバスに乗りました。バスターミナルに着きましたが、本当にひどい雨で、バッグはびしょぬれです。水が中に染みこむのではないかとハンカチでバッグを拭いたほどです。

空港行きのバスは1時間に1本ですが、昨日、時刻表を見て、だいたいの見当をつけて来たので、バスターミナルで長くは待つことなく空港行きのバスに乗りました。

話は、少し横道にそれますが、カリーニングラートは小さな街なので、街歩きは、文字通り歩くことが多くあまりバスや市電には乗りませんでしたが、それでも、何回かはバスや市電に乗りました。市内のバスなどの料金はペテルブルクよりもさらに安く、バスは10ルーブル、トロリーと市電が8ルーブルです(写真上)。カリーニングラートの物価は、やはりモスクワやペテルブルクよりも格段に安いと思いました。意外に、ペテルブルクは食料品などでモスクワに比べて高いものが多く、モスクワが世界一物価の高い街だというのは、やはり統計の取り方に問題があると思いました。確かに、ホテルや住居費などはモスクワが国際的に見ても高いのかも知れませんが、食料品や交通費は、モスクワは、東京などに比べてはるかに安いという印象です。もちろん、高いものもたくさんありますが、庶民的な値段のものもたくさんあります。カリーニングラートの例のスーパーでは、ペテルブルクで140ルーブルで買ったチョコレートは127ルーブルで売っていました。コルクノーフのチョコレートはカリーニングラートでは作っていないと思うので、輸送費がかかっているはずですが、なぜか、モスクワよりも、ペテルブルクよりも安い値段です。もちろん、モスクワやペテルブルクでも、安いお店はあったかも知れませんが。

空港に着くと、まだ少し時間があるので、びっしょり濡れた傘を広げて乾かしながら、チェックインの時間を待ちました。10:30頃にチェックイン、11:00頃に搭乗、定刻通り11:25に出発しました。雨は少し弱まり、風も穏やかになっていて、離陸に支障はありませんでした。

予定通りにモスクワのシェレメチェヴォ第一空港に到着し、荷物をピックアップし、851番のバスに乗ってシェレメチェヴォ第二空港に移動しました。時間はモスクワ時間でまだ15:30頃でした。成田行きのアエロフロートの出発予定時刻は19:20ですから、まだかなりの時間があります。あまりにもスムースにカリーニングラートからモスクワに戻ることができたので、シェレメチェヴォ第二空港で長い時間をつぶすことになりました。出発ロビーのカフェでずっとねばっていましたが、出発ロビーは、2001年に来たときに比べて、すっかり明るく近代化された印象を持ちました(写真上)。カフェやお店ができたからでしょうか。到着ロビーもこのように明るくなれば、到着したときのシェレメチェヴォ第二空港の第一印象もずっと改善されるに違いありません。
(9月25日記)
| in Kaliningrad | 12:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
カリーニングラートでの最後の夕食
9月7日(木)の昼少し前、例の新聞記者の携帯に電話を入れたところ、またあとで電話してくれとのことで、その後、数回ほど電話して、結局、夜に州政府の職員と一緒に新聞記者も交えて会うことになりました。その職員は、新聞記者とほぼ同じ年齢の若い人物で、まったく普通の職員です。大通りに面した気さくなカフェで、食事をし、ビールを飲みながら、話をしました。新聞記者の彼は、「ほんとうはもっと幹部職員に会わせるところだけれど、いろいろ試みてみたが、急な話で時間がなく、それはできなかった。この人物は、自分の個人的な友だちだ」とすまなそうに言うので、「無理なことは承知している。いろいろ面倒をかけて、かえって申し訳なかった」というようなことを言いました。

その記者の友人という州政府の職員は、それでも対外関係を扱う部署にいるとかで、主として経済関係分野ではあるけれど、外国とくにEU諸国のビジネスマンともよく会う機会があると言います。政治や地方行政については、「州政府に勤務してまだ5年ほどだから、エリツィン政権のときのことはよく知らないが、経済の発展につれて、税収も増え職員の数も増えており、インフラの整備も進み、行政サービスも
行き届くようになったと言えるのではないか」と現状にはかなり肯定的で、最近のめざましい経済発展のゆえに、ロシアの現状と将来に対して相当に自信を持っているという印象でした。州政府内部の人間だし、見ず知らずの外国人である私に、果たして本音を語っているかどうかはわかりませんが、少なくとも、街を見る限りは、彼の言うインフラの整備も進み、行政サービスも行き届くようになっているというのは事実だと思います。政治の腐敗や、新しい知事と地元エリートとの軋轢などについては、明確な意見を聞くことはできませんでした。

ところで、話はまったく変わりますが、ロシアでは、最近、若い世代では、ウオッカよりもビールが好まれています。今回、私も、ビールをいろいろ飲んでみましたが、味と値段のバランスがとれているのは、ここに写真をあげた銘柄でしょうか。写真上は、「シベリアの王様(あるいは王冠)」といった意味の「シビルスカイ・カローナ(Сибирская корона)」。写真下左はご存知「バルチカ(Балтика)」のナンバー2(バルチカは番号によって味やアルコール度が違います。ライトもあるし、黒ビールもあります。私も好きですが、一般に日本人が好きなのは3番みたいですね)。写真下右はペテルブルクのネヴァ川にちなんだ「ネフスコエ(Невское)」です。どれも、500ミリリットル入りのボトルで20ルーブル(約90円)前後です。
(9月25日記)
| in Kaliningrad | 12:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
カリーニングラートの街歩き
カリーニングラートは、9月5日のDiaryで書いたように、もともと第二次世界大戦終結まではケーニヒスベルクというドイツ人の街でした。そのため、道路や河川の配置など、街の基本的な都市計画はドイツ領時代に行われたものなので、何となく街の造りがドイツ風です。もっとも、中心部は戦災でほとんど破壊され、焼け残り崩れかかったケーニヒスベルク城やドイツ風の教会なども、ファシストの遺物として一掃され、そのあとにソ連風のアパートが建ち並びました。

中心部が戦災でほとんど破壊されたのは、たとえばもともとはザクセン王国の首都で、第二次世界大戦後は東独領となったドレスデンも同様ですが、ドレスデンの場合は、そのままドイツ人が住み続けたわけですから、例えソ連の支援のもとで復興されたとしても、ドイツ人たちは父祖の代から街にあった王宮や教会を苦労しながら少しずつ再建してきました。それが今日、ドレスデンが旧ザクセン王国の首都としてふさわしい立派な宮殿を持つ美しい街として再建されている理由です。

ところが、ケーニヒスベルクは、ドイツ人の代わりにロシア人が移住してきたため、ドイツ人の遺してきた城や教会には何の感慨もなく、ファシストの遺物として完全に破壊してしまったため、今日、カリーニングラートは、観光資源としてはこれといって見るべきものもない、ソ連式のコンクリートのアパートの並ぶ味気ない街になってしまいました。それでも、市の中心部には、お城こそ再建されていませんが、シンボルとなるような教会が再建され(写真下の上の写真)、美しい河岸もそのまま残っています(写真下の下の写真)。


歴史博物館(写真下)に行くと、第二次世界大戦前のケーニヒスベルクがどのような街だったのかがよくわかります。ソ連によってダイナマイトで最終的に破壊されたお城が「なぜ破壊されてしまったのか」と、博物館内で資料などがいたずらされないように見守っている職員の方(たいていは、お年寄り)に聞いたところ、「ファシストの遺物だと考えられたこと、再建するお金がなく、必要なのはアパートだったことなどが、その理由だ」と言われました。「でも、お城はファシストがつくったのではなく、もっと前につくられたものでは?」と反論すると、「それは分かっている。今日の立場に立てば、歴史的遺産が破壊されたのは残念だと言えるけれど、当時は、仕方なかった」と言います。

しかし、戦災で焼け残った旧市街に行くと、普通の民家ですが、ドイツ時代の名残をとどめる庭付き一戸建ての住宅が並んでいます(写真左の4枚)。ソ連時代のロシアにはまったく存在していなかった戸建ての個人住宅です。ソ連時代は、これをどのようにして使っていたのでしょうか。大きめの家は複数の家族で使用していたものと推測されますが、小さいものはどうしていたのでしょうか。幹部用の住宅だったのでしょうか。現在は、一部は外国の外交官が使っているようですが、大部分は、市場経済のもとで誕生した中産階級が暮らしているようです。たいていの家は、外壁などをきれいに塗装しなおしたりして、きれいに修復されて使用されていますが、一番下の家のように、外壁は昔のままで使われている家もあります。モスクワ郊外などには、ここ5年から10年以内に建った庭付き一戸建ての個人住宅がありますが、市街地にこのような戸建ての住宅が立ち並ぶさまは、ロシア本国内では決して見られないものです。
(9月25日記)
| in Kaliningrad | 10:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
カリーニングラートで新聞記者に会う方法
6日(水)の朝、ホテルで朝食を済ませたあと、いったん部屋に戻り、モスクワでも、ペテルブルクでも、とっかかりのつかめなかったカリーニングラートで、どのようにして現地の人に話を聞くのか、作戦を練らなければなりません。かつて、まだソ連の時代、大使館に勤務していた頃は、地方に行って、いきなり新聞社や役所に電話しても、「日本大使館員(сотрудник посольства Японии)」と名乗れば、たいていはそれなりの応対をしてくれたものでしたが、大学教授だろうが、何だろうが、一介の民間人では、そんな神通力はありません。しかし、アポ無し突撃取材ではないですが、あたって砕けろでやるしかありません。

とりあえずは、好奇心旺盛なはずの新聞記者にコンタクトをとらなければなりません。まずは、昨晩、地図を買ったキオスクに行きます。キオスクはバス停前にあって、バスを乗り降りする人たちがたくさんいて、朝の通勤ラッシュといったところです。キオスクの横で、バスを待つ振りをしながら、人々がどの新聞を買うか観察します。スポーツ新聞やら、女性向けのものやらいろいろあるのですが、2、30分ほど見ていると、一番買われているのは、コムソモーリスカヤ・プラウダのカリーニングラート版(Комсомольская Правда - Калининград)のようです。タブロイド版で、色刷り印刷の新聞です。コムソモーリスカヤ・プラウダは、よく知られている全国紙で、日刊新聞としてはおそらく発行部数はロシアで1、2を争う大新聞です。どうやら、その地方版ということらしい。

そこで、私もそのコムソモーリスカヤ・プラウダ・カリーニングラートを買い求め、ホテルに戻りました。ホテルに戻ると、一番うしろのページの一番下、発行者の情報が書いてある欄を見ます。確かに、カリーニングラート市内に編集局があるようです。住所が書いてあるので、昨日買った地図で場所を調べると、それほど遠くないところです。電話番号も書いてあります。

とりあえず電話をするという手もありますが、電話だと、電話口で門前払いを食わされる可能性もあるので、近くなのだから、ダメもとで直接に編集局に行くほうが可能性は高いでしょう。とりあえず、会って話をしたほうが、怪しさは半減するでしょうから。

コムソモーリスカヤ・プラウダ・カリーニングラートの編集局のあるビルは、他のいくつかの新聞社の支局やジャーナリスト同盟カリーニングラート支部の事務所などがある、いわばプレスセンタービルのようになっているビルでした(写真下)。

正面入り口を入って、コムソモーリスカヤ・プラウダ・カリーニングラートの受付はどこかと聞くと、ビルの横の入り口から入ったところにあると指示され、そちらに回りました。ドアを開けて入ると、広いホールになっていて、そのほぼ真ん中に作業台のようなデスクがあって、デスクにはカギ箱と電話があり、私服とはいえ雰囲気的に警備員らしき中年男性が座っていました。新聞の束を担いだ人や、記者らしい人が忙しそうに出入りしていて、その人物が、その人たちに「おはよう」の挨拶をしたりしています。その男性に、ペテルブルクで話したのと同じように、名前、所属、専門、カリーニングラートに来た目的を話し、誰でもいいから記者の人と話がしたいと言いました。彼は、ひととおり私の話を聞いたあと、わかったと言って、どこかに電話をしています。口振りから、受付の彼は、やはり、コムソモーリスカヤ・プラウダ・カリーニングラートの受付ではなく、このプレスセンタービル全体の受付兼警備員のようです。電話の向こうが、本当の、コムソモーリスカヤ・プラウダ・カリーニングラートの受付のようです。話が終わると、彼は、先ほどから人が出入りしている自分の後方にあるドアを指さして、そのドアを入って、突き当たりに、受付があるから、そこで話をするようにと指示します。

指示通りにドアにはいると、すぐに受付があり、3人の女性が忙しげに働いています。一番年長の見たところ40歳くらいの女性が、手招きするので、その受付のブースの中に入り、私がふたたび同じ話をし始めると、事情はわかったので、いま、上にある編集部に電話をしてみるから、そこで待つようにとのこと。電話のようすでは、どうやら記者が会ってみようと言うことになったらしい。で、記者とおぼしき人物が階段を降りてきました。体格のよいがっちりした男性で、50歳近いかも知れない人物です。「こんにちは、初めまして」と挨拶をして、名刺を出し、事情を説明すると、彼は、「自分はスポーツ記者で、政治担当の記者は12時頃にならないと出勤してこないが、その政治担当記者のデスクにこの名刺と自分が書いたメモを置いておくから、もう一度12時頃に電話をしてほしい。必ず会えるようにする」と話し、その政治担当記者の名前と電話番号をメモ用紙に書いて私にくれました。

やはり、そう簡単ではありません。とりあえず、出直すしかありません。午前中は、市内を散策して、時間をつぶすことにしました。12時きっかりに、私は電話でなく、ふたたびプレスセンタービルの受付に来ました。そこには朝と同じ男性がいて、こんどは挨拶しただけで、奥のドアに入りました。中にも朝と同じ女性がいて、2時間ほど前のスポーツ記者と私とのやりとりを聞いていた彼女は、すぐに電話をかけてくれました。その電話口に出たのは、スポーツ記者が名前を教えてくれた人物のようです。すぐに下に降りていくからとのことで、待っていると、40歳くらいの、これまたがっちりした体格の記者が降りてきました。「こんにちは、初めまして。お忙しいところ恐縮です」といった感じの挨拶をすると、「いや、いや、大丈夫」という感じで、2階へ案内してくれました。あいている会議室を探しているようで、いくつかの部屋のドアをあけて、資料室のような部屋に案内してくれました。コンピュータがあって、そこでは男性がなにやら仕事をしています。「邪魔になる?」「いや、大丈夫だよ」みたいなやりとりがあったあと、その部屋のイスに座り、話をすることになりました。

「じゃ、始めましょうか」という感じで、私はあらかじめ用意していた質問事項を質問し、彼がそれについて答えるという形式で、話が始まりました。彼自身の経歴などについても話を聞きました。昨年任命されたモスクワ出身のボース知事と地元のエリートとの軋轢はないわけではないが、モスクワからお金が入ってくることを期待して全体としては歓迎されていること、州議会が賛成多数で彼を支持したことは、単純な理由ではないが、やはり経済的な思惑が働いたであろうことなど、いろいろ説明してくれました。エリツィン政権時代と、プーチン政権時代とで、どのようにカリーニングラートの政治や経済が変化したか、あるいはロシア全体の政治や経済が変化したかという質問に対しては、やはりいろいろな点で大きく変化したことを話してくれました。カリーニングラートには、EU諸国とくにドイツ、英国、フランスなどからの投資がどんどんされていて、経済が非常に発展しているという話です。プーチン政権になってマスコミの自由が制限されてきているのではないかという見方が、欧米や日本にはあるが、記者をやっていて、そういう意見にはどう思うかと尋ねたところ、言論の自由の問題だけでなく、一般的な政治的自由にまで話を広げて、具体的に一つ一つ反論されました。日本のことはまったく知らないが、という前置きで、主として「米国の政治や言論が、どの程度自由か」ということについて、彼はかなり具体的に話をしていました。彼の米国の政治に対する批判は、ある程度は、的を得ていましたが、米国批判はともかく、彼が、プーチン政権の政策やマスコミの現状についてかなり客観的に見ていて、その上で、「ロシアのマスコミの自由は、マスコミが自立的に経営できるかどうかということにかかっている。インターネットなどの急速な普及は、これまでの言論の自由に関する議論を根底から考え直さなければならないところに来ているはずで、これだけインターネットが発達してくると、どんな政権でも言論をコントロールすることなどなかなかできない」との意見は、私が日頃から考えているものと同じものでした。

私の質問がひととおり終わったら、彼が逆に取材をしてよいかと聞くので、どうぞと言い、彼のインタビューが始まりました。私個人のこと、日本とロシアとの経済関係、カリーニングラートと日本との経済関係の可能性などについて意見を求められました。カメラマンが来て写真を撮って、彼の取材は終わりです。

彼に東京から持って来たおみやげの「風呂敷」を渡し、モスクワの大使館でいただいてきた日本紹介の雑誌を編集部へのおみやげとして渡しました。「ところで、幹部でなくてよいから州政府の職員の知り合いがいたら、話をしたいので紹介してくれないか」と切り出すと、彼は、「わかった。必ずとは約束できないけれど。明日の午前中、携帯に電話を入れて下さい」と言ってくれました。
(9月25日記)
| in Kaliningrad | 10:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
カリーニングラートのスーパー
思えば、モスクワでは毎日リッチな夕食をしておりました。ロシア人と会ってレストランでお食事。日本の新聞記者さんたちと会ってお食事。当然、お酒も飲みました。ロシア人に勧められて、はやりの水タバコも試みました。退廃的な雰囲気で好きにはなれませんでしたが、バニラのフレーバーの水タバコは、なかなかの美味でした。

ペテルブルクでは、学生のTAさんと、夕食で1度だけグルジア料理を食べたほかは、まあ適当にそのへんで済ませていたという感じではありましたが、それでも勝手知ったるピーチェルの街、それなりに美味しいお店なども見当がつき、困ることはありません。

ところが、まったく初めてのカリーニングラート。知り合いのいない孤独な街での最初の夕食はどうしましょう。とにかく街に出ましょう。

小雨がぱらつくカリーニングラートの街。大通りを歩きます。とにかく地図を買わなければ。すぐにキオスクがあり、ガラス越しに地図が3つほど並んでいます。「その地図、ちょっと広げて見せてください」とお願いすると、市の中心部がそこそこ詳しく出ている地図ですが、バスやトロリーの路線は乗っていない様子です。「もう一つのほうは?」と少し値段の高いほうを指さすと「同じ、同じ」とめんどくさそう。高いほうを買うかも知れないのに、この商売っ気のなさは、相変わらずのロシアです。「バスやトロリーの路線の載った地図はないのか」と尋ねると、「ない」との答え。「じゃ、それでいいや」と、いま広げて見せてくれた安い方の地図を買いました。通りの名前は全部載っているようなので、まあ使えるでしょう。

もう少し歩いていくと、道路の向かい側に、大きな食料品のスーパーマーケットとおぼしきお店があります。しかも、24と大きな文字が看板に書かれています。24時間営業らしい。大通りを渡って、そのスーパーマーケットに入ると、2階に続くエスカレーターもあるほどの大型店。世田谷、杉並近辺だと「サミット」、立川、日野周辺だと「いなげや」、京王沿線では「京王ストア」、小田急沿線なら「オーエックス」というようなスーパーがあるけれど、そんなスーパーよりはかなり大きい。「イトーヨーカドー」や「ダイエー」に近いかも。なべ、かま、洗剤、雑貨、衣料品、生鮮食料品、お酒、お菓子、お総菜、何でもある! 時計も宝石もある! 携帯も売ってる!

こんなスーパーは、もちろんモスクワにもペテルブルクにもありますが、あいにくホテルの近くにはありませんでした。ところが、最後にやってきたさいはてのカリーニングラートがこんなに便利なんて。

さっそく、そこでお総菜を買うことにしました。サラダだけでも、なんと20種類近い種類があります。好きなものを選り取り、グラム単位でプラスチックのカップに詰めてくれます。シャシリーク(串焼き)も、カレー味とかのもあって、もちろん電子レンジでチンしてくれます。当然、ハム、ソーセージも豊富な品揃えでグラム売り。ここは天国です。

ケフィール(飲むヨーグルト)、ミネラルウォーター、ビールも買って、占めてお値段は、「安いっ!」。こんなに買って、100ルーブル(約400円)ちょい、って、信じられない安さです。

ホテルに冷蔵庫と湯沸かしポットがあればなぁ、と思った次第。何しろ、クノールの即席ボルシチもあるのです(写真下)。写真は、左から、キノコ入りヌードル・スープ、ボルシチ、ハルチョー(ラム・シチュー)。

クノールのカップボルシチなどはおみやげに買うことにして、夕食にはお総菜やシャシリークを買って、ホテルでいただきました。
(9月24日記)
| in Kaliningrad | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
カリーニングラートに到着
カリーニングラート(Калининград)とは、そもそもどこにあるのかと言うと、ポーランドとリトアニアに挟まれたバルト海沿岸の地域にあり、ロシア連邦の一つの州でありながら、ロシア連邦から切り離された飛び地になっているところです。もともと、ここはドイツ人が多く住んでいたところで、ロシア帝国の時代、ポーランドがバルト海に面していない内陸国だった頃は、プロイセンの東の端にあり、東プロイセンと呼ばれていた地域です。カリーニングラートはその中心都市で、第二次世界大戦後にソ連領となってカリーニングラートと呼ばれるようになるまでは、ケーニヒスベルク(Königsberg)と呼ばれていました。哲学者のカントはこの街に住んでいました。ところが、第二次世界大戦後、この地域は、ソ連領に組み込まれ、ドイツ人はこの土地から追われて、代わりにロシア人が移住してきました。ソ連崩壊後は、そのままロシア連邦の領土になりました。また、カリーニングラートはバルト海に面した重要な軍港でもあり、ソ連時代には外国人がこの街に入ることはできませんでした。

カリーニングラートまでのフライト時間は1時間30分。しかし、カリーニングラート上空にさしかかり、地上近くに高度を下げ、雲の下に出ると、機体が揺れること揺れること。さすがプルコヴォ航空と思っているうちに、揺れながらも見事なランディング。機内からは拍手が。きっと、みな落ちるかも、と考えていたのでしょうか。

カリーニングラート空港は、完全なるローカル空港。ターミナルビルと呼べないような倉庫のような建物があるだけ。タラップを降りると確かに小雨混じりの非常に強い風が吹いています。よくこんな強風の中を着陸できたものと、パイロットの技術に感嘆してしまうほどです。

荷物を機体からダンプカーのようなトラックに積み替え、そのトラックが倉庫のような空港ビルの横に止まり、おじさんが荷物を下ろすという、分かり易い仕組みで、荷物をピックアップ。空港の倉庫のような建物を出るとすぐにバスが停まっています。

バスに乗り込んだものの、バスはなかなか発車しません。そのうち、別の飛行機が着陸して、その客も乗せていく様子です。結局、1時間ほど待って、出発。あとから来た便に乗ってきた客の中に、日本人とおぼしき青年がいます。『地球の歩き方』を持っているのですぐわかります。その青年に話しかけたら、モスクワから来たとのこと。泊まるところは決まっていないとの由。留学中なのでしょうか。その青年に、「まさか日本人に会うとは!」と驚かれましたが、それはお互い様。

バスの切符は30ルーブル(約135円)。「高っ!」(この現地感覚が大切)。10ルーブルの切符の3枚つながったものをくれました。さて、泊まるホテルは「カリーニングラート」ホテルと決まっているので、運転手さんに、「『カリーニングラート』ホテルに行きたいのだけど」と言ったら、その近くのバス停に停まるとのこと。

まだ地図がないから、今どの辺を走っているのか見当も付かないけれど、ずっと田園風景の中をバスは走っていきます。途中、鉄道の線路が並行していましたがそれもつかの間、30分以上走ってようやく市内とおぼしきところに入ってきました。『地球の歩き方』の、簡単な市内地図を見ても、なかなか要領が得ないけれど、途中、中央にモニュメントらしきものが立つ広場を過ぎたので、隣のロシア人に、「あれは何という広場ですか」と尋ねたら、「勝利広場」との答えが返ってきたので、ようやく現在地が判明し、「カリーニングラート」ホテルはまもなくとの感触。きょろきょろしている私を気遣って、後の座席に座っているロシア人が、「降りたいところを言わないとダメだよ」と教えてくれます。それはわかっています。で、そろそろとおぼしきところで、席を立ち、荷物を持って前の方に行き、「『カリーニングラード』ホテルは、ここ?」と運転手さんに聞いたら、「そうだよ。気をつけてな」とバスを止めて、ドアを開けてくれました。くだんの日本人青年は、まだバスに乗っています。終点のバスターミナルまで行くのでしょう。

大通りのバス停は、バスを待つ勤め帰りの人でごった返していました。『地球の歩き方'06〜'07』に掲載されている地図によれば、ホテルは、この大通りの反対側のはず。辺りを見回すと確かに、ありました、アパートのような味気ないホテル「カリーニングラート」が(写真下)。いつぞや去年の夏のドイツ旅行のところでも書きましたが、方向音痴の対局にある方向感覚抜群の私は、初めての場所でも道に迷うことなく、確実に目的の場所にたどり着けます。なんなくホテルにチェックインしました。

部屋について、ふと時計を見ると、もうカリーニングラート時間で19:00。モスクワやペテルブルクとは1時間の時差があるので、ペテルブルクでは20:00という時間です。なるほど、おなかがすいているわけです。
(9月24日記)
| in Kaliningrad | 23:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
カリーニングラートへ
市立第32番病院に入院中の知人をもう一度訪ねて励ましたあと、日本へのおみやげのカレンダーを買いに市内の本屋さんに行きました。モスクワでも、ペテルブルクでも、ちょっとした時間があると本屋さんに入って本を見たりしていましたが、あまり荷物を重くしたくないので、買いたい気持ちをぐっとこらえて、買い物は最小限に抑えていました。私がおみやげによく買うカレンダーは、名所旧跡の美しい写真のついているカレンダーです。絵はがきよりも実用的なので、カレンダーは気に入っています。

カリーニングラート行きの飛行機の出発時間は、15:50なので、午前中、お見舞いに行ったあと本屋さんで買い物をして、いったんホテルに戻る時間は十分にありました。チェックアウトのときに電話代を請求されるのかと思ったら、まったく請求がありません。モスクワの「イズマイロヴォ・アルファ」ホテルでは、戻ってきて鍵を受け取るときに毎回、市内電話なのに手数料込みの割高の電話料金を払わされていたのですが、ペテルブルクの「モスクワ」ホテルは太っ腹です。もっとも、市内電話しかかけていないので、大した料金ではないでしょう。

地下鉄モスコフスカヤに着いてから、おみやげにチョコレートを買おうと思って、少し駅の周りを歩いてみましたが、よい店がありません。キオスクなどで売っているチョコレートは、保存状態がよくないような気がして、あまり買う気にはなりません。やはり、ちゃんとした食料品店やお菓子屋さん(Кондитерская)で買いたいものです。こういうことは、地元のご婦人に聞くのが一番です。駅前の通りを歩いていた買い物途中らしい上品な感じの中年の女性に、「おみやげに、チョコレートを買っていこうと思うのですが、よいお店をご存じありませんか?」と聞いたら、目の前の百貨店を指さしし、「この中にもあるけど、いろいろなチョコレートを売っているとてもよいお菓子屋さんがこの大通りをちょっと先まで行ったところにありますから、私は、そちらをお勧めしますよ」と親切に教えてくれました。

キャスター付きのバッグを引っ張って少し歩かなければなりませんが、そちらのほうがよいとすすめられたチョコレート屋さんに行ってみることにしました。ありましたありました、店に近づいたら、ぷーんと甘いチョコレートの香りがただよってきます。確かにチョコレート専門の、立派なお店でした。もちろん、買おうと思っているのは、コルクノーフ(А.Корукнов)です。今のところ、私のお薦めのロシア・チョコレートは、やっぱりこのメーカーです。コルクノーフのチョコレートの種類はいろいろありますが、どれも美味しいと思います。これまでロシアのチョコレートは、日本のチョコレートを食べ慣れている私たちにとっては、少しこってりと甘すぎる感じがあったのですが、コルクノーフの甘さは、すっきりとしていて後味がさわやかな感じです。おそらくカカオバターの質がよいのではないかと思います。買ったのは、下の写真のシリーズ。これはベージュのケースに入ったものですが、そのほかに赤、緑、茶の4種類あります。1つづつ買いました。1つ140ルーブルでした。カリーニングラートには行ったことがないので、あるかどうかわかりませんから、とりあえずペテルブルクで買って行くことにしたわけです。

さて、モスクフスカヤの駅前のバス乗り場から、プルコヴォ第1空港行きの39番のバスに乗りました。道は比較的すいていて、20分ほどで空港に着きました。空港に着いたのは14:00頃。少し遅い昼食を空港内のカフェで食べたのですが、空港内のカフェのメニューの値段は市内の3〜5倍もしてびっくり。市内で食べてくればよかったと思いました。

さて、乗る飛行機は、8月半ばに落ちたばかりのプルコヴォ航空の飛行機です。ちょっぴり不安がよぎりますが、運を天に任せるしか仕方ありません。
(9月24日記)
| in Kaliningrad | 22:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
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