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このブログの管理人(上野俊彦)の見解は管理人個人のものであり、管理人の所属する上智大学を代表するものではありません。
広告は管理人および管理人の所属する上智大学とは無関係です。掲載されている写真はとくに断りがない限り管理人が撮影したものです。

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イェフパトーリア
クリミアは、一般のロシア語学習者のイメージでは、チェーホフなど文豪、あるいはロシアの富豪や著名人などが滞在した帝政ロシア以来の保養地・避寒地というイメージなのですが、バフチサラーイのところで書いたとおり、クリミアがロシアになったのも長いクリミアの歴史からすれば最近のことに過ぎず、それ以前は、イスラムのクリミア・ハン国だったということを考えてみると、クリミアはヤルタだけではない、あるいはたんなるロシア人の保養地ではない(もちろん軍港のセヴァストーポリはあるにせよ)、ということがわかってきます。さらに、セヴァストーポリのヘルソネース・タヴリーチェスキーの遺跡を見ると、タタール以前のクリミアはギリシア人の国だったということも、わかってきます。

そのようにして、書物からではなく現地での実体験を通じてクリミアの歴史を学んでいく過程で、私はイェフパトーリアという町の存在を知りました。ギリシア人の造った町であることを示すと思われるそのギリシア風の地名の音の響きにも心を動かされましたが、シンフェローポリのムスリム(イスラム教徒)の方に、「イェフパトーリアという美しい町がある。そして、ぜひ、そこのイスラム寺院を見に行くとよい」と強く勧められたこともあって、私は、日本を出るときにはまったく知らなかったイェフパトーリアに行くことにしました。

詳細な地図で見ても、イェフパトーリアに鉄道で入るルートは1つしかありません。ウクライナ本土からクリミア半島のシンフェローポリまで南下する鉄道が途中で枝分かれしている、その鉄道だけです。イェフパトーリアはその鉄道の終点になっています(5月22日の地図参照)。シンフェローポリ駅に掲示されている時刻表によると、シンフェローポリからの電車は1日6往復くらいしか出ていませんが、シンフェローポリからイェフパトーリアまでは2時間弱でいけるので、十分日帰りはできます。

イェフパトーリアは、キエフにいたときには、そういう町があることすら知らなかったのですから、キエフではイェフパトーリア市街図を買っていません。シンフェローポリでちゃんと探せばあるのかもしれませんが、シンフェローポリの市内をゆっくり探している時間もないので、現地に行けばあるだろうと、とにかく詳しい地図を持たずに出発しました。4月20日(金)のことです。

クリミアのステップの大平原を電車はのんびり走っていきます。イェフパトーリアの少し手前でサーキ(Саки)という駅に停まりました。ここは、ヤルタ会談のときにスターリン、ルーズヴェルト、チャーチルらの一行の飛行機が降り立った飛行場があるはずの町ですが、鉄道から見る限りは、潟湖があって、しばらくいくと海岸があり、そこが海水浴場になっている小さな町です。どこに飛行場があるのでしょう。しかも、シンフェローポリからはかなり遠く、電車でここまで1時間半くらいかかっています。1945年2月初め、一行は、ここからヤルタまで車で移動したのか、と改めて、驚きました。

サーキを過ぎると程なくイェフパトーリアに到着しました。駅(下の写真)を降り立ってすぐにわかりました。確かにイェフパトーリアは、美しい町です。海水浴などを楽しむ保養地でもありますが、田舎町なのに街並みは綺麗に整えられていて、市電もキエフなどに比べて新しいタイプのものが走っています。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

下の写真は市役所前を走る市電です。
写真をクリックすると大きな写真を見ることができます写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

駅のキオスクでこの町の市街図はあるかと聞いたら、見せられたのは、名所旧跡の写真のついたパンフレットのような地図でした。頼りになるのかなと、いぶかしい気持ちで広げてみると、道路の名前や、名所旧跡、博物館その他の施設なども掲載されていて、しかも市電の路線も書いてあるので、なかなか便利そうです。すぐにそれを買って、イスラム寺院(Мечеть)を探しました。

ありました、ありました。イスラム寺院の名前は、「ジュマ・ジャムィ(Джума-джамы)」といい、市電の走る大通りを挟んで海岸沿いの公園のすぐ向かい側にあります。ですから、鉄道の駅から市電で行けるのですが、地図で見る限り、そのイスラム寺院のある辺りは、細い道が入り組んでいて、ユダヤ教会やアルメニア教会などもあるところからすると、どうやら旧市街のようです。そこで、駅から歩いて旧市街を通り抜けていくことにしました。

旧市街の路地からイスラム寺院のそれとわかる尖塔が見え隠れする風景は、トルコか中東の街を思わせます。もっとも、私はトルコなどには一度も行ったことはないのですが(下の写真)。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

イスラム寺院「ジュマ・ジャムィ」(下の写真)には、のんびり歩いて40分ほどで着きました。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

「ジュマ・ジャムィ」では、おりしも信徒の方たちの寄り合いがあるようで、何人かの人が寺院の入口を出入りしたりしています。年配の方に挨拶をして、少し話をしたら、わざわざ日本から来たというのをとても珍しがって、建物の中に入れてくれました。彼は、奥に集まっていた人たちを呼んだようで、奥にいた人たちが、次々に出てきて、いろいろ話しかけてきます。日本にもムスリム(イスラム教徒)はいるのかとか、いろいろ聞かれましたが、いちばん話が盛り上がったのは、実は容貌のことでした。全員が、日本人を直接に見たのは初めてらしいのですが、そのうち、「あなたにとっても似ている人がいるからいま呼んでくる」と誰かが言って、ぞろぞろと何人かのアジア系の顔立ちをした人たちが出てきました。聞いてみたら、クリミア・タタール人、ウズベク人、キルギス人と言っていました。クリミア・タタール人やウズベク人は、一般的には、中東系の顔立ちをしていて、私たちにはあまり似ていないはずなのですが、紹介された人は、確かに私によく似ていました。お互いの顔を見合わせ、私たちは大笑いをしてしまいました。

何か話し合いの途中だったようで、大笑いしあって打ち解けたあとは、数人の若者だけが残って、年配の信徒たちは奥の部屋に戻っていきました。とくに二人の若者(下の写真)が、この寺院のこと、イェフパトーリアやクリミアのムスリム(イスラム教徒)たちのことについて、いろいろ話をしてくれました。イェフパトーリアは2500年の歴史があると知って、非常に驚きました。確かにギリシアの植民都市だったとすればそういうことなのでしょうが、私は改めて驚きました。もちろん彼らが、この町の長い歴史を誇りに思っているのは、当然です。彼らに市内の見所などを聞いたあと、丁寧にお礼を言って、「ジュマ・ジャムィ」をあとにしました。クリミアのイスラム寺院では、どこでも、みなとても親切で、フレンドリーなのに驚くばかりです。写真をクリックすると大きな差親を見ることができます

いま活動しているイスラム寺院のほかに、かつてのイスラム宗教学校と寺院の遺跡があるということで、行ってみました(下の写真)。中では、ガイドさんの説明があり、小さな資料館(資料室)もありました。写真をクリックすると大きな差親を見ることができます

教えられた古代遺跡は、見学できる部分はほんの一部分で(発掘して調査したあと、かなりの部分は埋め戻されたようです)、あまりたいしたものではありませんでしたが、その近くにある郷土博物館(下の写真)は、小さいですが展示はなかなか面白く、自由に写真を撮らせてくれて、とても親切でした。写真をクリックすると大きな差親を見ることができます

イェフパトリア建都2500年記念碑です。写真をクリックすると大きな差親を見ることができます
| in Crimea | 14:36 | comments(0) | - |
バフチサラーイの山登り
写真をクリックすると大きな写真を見ることができますハーンの宮殿の館長さんに、「さらに奥に行って少し山を登ったところに岩山をくりぬいて造られたウスペンスキー修道院があり、さらにその先の山の上に『洞窟都市』チュフート・カーレ("Пещерный город" Чуфут-Кале)があるから、ぜひ行くといい」と勧められて、山登りの趣味はないのですが、結局、山登りをすることになりました。確かに地図で確認すると、少し行ったところに、そういう名所があると書かれています。修道院のふもとまでは、ハーンの宮殿に来るときに乗ってきた1番のマルシュルートカ(ミニバス)に終点まで乗っていけば写真をクリックすると大きな写真を見ることができます着けるとのことですし、そこから先の山道を歩いても、地図で見る限り、距離的にはたいしたことはなさそうなので、とくに登山の装備はしていませんでしたが、行ってみることにしました。

小さな修道院でした。確かに、岩山をくりぬいて造られていましたが、その部分は撮影禁止なので、写真はありません。上り口の階段までは写すことが許されていますので、その先は想像してみて下さい。くりぬいたといってもトンネルのように細長くくりぬいているわけではなく、いわゆる本堂部分が岩山のくりぬいた部分になっているだけで、深くくりぬかれているわけではありません。見た感じでは、くりぬいたというよりも、岩山のくぼみ、あるいは裂け目を利用したようにも思いました。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

修道院からさらに山奥に入って行きます。険しい道ではありませんが、しばらくは森の中の細い道が続き、やや視界が開けて急な上り坂になりました。下の写真は、その急な上り坂の部分です。ハーンの宮殿を出て修道院に着いたころから天気が悪くなり、ときどき小雨がぱらつくあいにくの空模様になりました。この日は4月19日の木曜日、平日ですが、私のほかにも登山者がいます。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

修道院から1時間くらい歩いたでしょうか。チュフート・カーレに到着です。山の頂上は平らになっていて、そこにチュフート・カーレの入口があります。しかし、実は洞窟になっているのは一部分で、むしろ山上の平地に石造りの集落があるという感じです。行ったことはありませんが、インカ帝国の遺跡の一つであるペルーのマチュピチュを、標高を低くし、周囲の山を平坦にしたような感じなのではないでしょうか。規模もマチュピチュよりも少し小さいと思います。マチュピチュは周囲にマチュピチュを見下ろせる山があって、そこから写した写真をよく見ますが、チュフート・カーレを見下ろせるような高いところが近くにないので、ヘリコプターでもない限りこのチュフート・カーレの全体を写すことができません。その基礎は5-6世紀にまで遡るということですのでかなり古くからあるということになります。イスラム寺院の跡などもありますので、18世紀くらいまでは人が住んでいたようです。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

山の上の「洞窟住宅」で私の前を歩いていた2人連れと出会い、少し話をしました。彼らはキエフから来た若者で、私とは逆に、これからヤルタに行くと言っていました。私が日本から来たと言ったらびっくりしていました。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

「洞窟住宅」の窓から外を見たら、そこがすごい絶壁の上であることに気づいて驚きました。深い谷の向こうには、また絶壁がそそり立っています。グランドキャニオンを小規模にしたような地形です。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます
| in Crimea | 21:15 | comments(0) | - |
ウクライナの地図
参考のためにウクライナ(UKRAINE)の位置がわかるヨーロッパ東部の地図を下に示します。ごらんのように茶色の部分がウクライナです。東(右)側から時計と反対周りに、ロシア(RUSSIA 黄色)、ベラルーシ(BELARUS ピンク色)、ポーランド(POLAND)、スロヴァキア(SLOVAKIA 地図ではSLOV.となっています)、ハンガリー(HUNGARY 地図ではHUNG.となっています)、ルーマニア(ROMANIA)、モルドヴァ(MOLDOVA 紫色)と国境を接しています。ウクライナの南は黒海(Black Sea)で、その黒海に突き出たひし形のような形の半島がクリミア半島です。


ウクライナ中部・南部の地図を示します(ウクライナ全図はこちら)。クリミア(ロシア語ではクリィムКрым)は、この地図の一番下のCrimean Peninsula とある部分です。わざとクリミアの前にいたキエフ(Kiev)、クリミアのあとに訪ねたオデッサ(Odesa)を含む地図にしてあります。バフチサラーイが出ていませんが、シンフェローポリ(Simferopol')とセヴァストーポリ(Sevastopol')を結ぶ鉄道のほぼ中間にあります。やはり、地図には出ていませんが、ヤルタ(Yalta)から海岸沿いに南西方向にアループカ、フォーロスに行ったのは、すでに書いたとおりです。さらに、バフチサラーイのあと、やはりシンフェローポリから日帰りでイェフパトーリア(Yevpatoriya)にも行きました。ただし、今回の旅では、クリミア半島東部のフェオドーシア(Feodosiya)やケルチ(Kerch)には行きませんでした。


今回、クリミアには、ヤルタに5泊、シンフェローポリに3泊という日程で滞在しましたが、東部に行くなら、さらにフェオドーシアかケルチに3泊くらいする必要がありそうです。クリミアは見どころが多いので、日本からの移動のことを考えると、2週間くらいの日程を組まないとクリミア全体を堪能できないと思います。もちろん観光バスでさぁーっと回ってしまうような旅ならば別ですが。
| in Crimea | 20:28 | comments(0) | - |
バフチサラーイのハーンの宮殿
写真をクリックすると大きな写真を見ることができますハーンの宮殿(Ханский дволец)は、バフチサラーイの駅から1番のマルシュルートカ(ミニバス)で15分ほど行ったところにあります。マルシュルートカは、あまり広くない道を、交差点を右に左に曲がりながら走って行きますが、駅からすると南方の山あいに向かっているはずです。着いてみると、意外にも、ハーンの宮殿は、難攻不落の山の上とか小高い丘の上とかではなく、また大きな川などに守られているわけでもなく、平地が狭まって、これから山がますます迫ってくる谷の入口のようなところにあります。周囲の山の上から丸見えといった感じの場所です。

戦争が絶えなかった時代、城や砦を造る場所は、ヨーロッパでも日本でも、あまり変わらず、守るに易く攻めるに難い見晴らしのよい小高い丘の上や、川に囲まれていたりする場所です。平野の真ん中にあるようなモスクワのクレムリンも、ヤウザ川がモスクワ川に流れ込む、つまり2面で川に接した、周囲から見ると少し小高い場所に築かれました。

それに対してハーンの宮殿は、むしろ窪地のようなところにあり、これといって守りが堅いような場所にあるようには見えません。ただ、周囲の山が急峻な崖を伴っているようなので、案外、これはこれで自然の要害に囲まれているということなのでしょうか。しかし、決して見晴らしのよいような場所ではありません。

ハーンの宮殿は、とてもエキゾチックで、私たちが中央アジアやトルコなどの風俗に対して持っているイメージそのものです。この建物は、宮殿であって、決してイスラム寺院ではありませんが、やはりイスラム文化が深く浸透しています。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます写真をクリックすると大きな写真を見ることができます左の写真は宮殿の入口ですが、モスクワのトレチャコフ美術館にあるヴェレシシャーギン(Василий Васильевич Верещагин 1842-1904)の「チムールの扉」という絵を思い出させます。「チムールの扉」は扉自体に細かい彫刻がなされているのですが、こちらは扉の周り、とくに入口の上部の彫刻がすごいと思いました。

室内もまた、エキゾチックですが、大広間(下の写真)は一般のイスラム寺院の内部ほどではないにせよ、かなりシンプルです。
写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

生活の匂いのぷんぷんするような居室(下の写真)は、文化習俗の展示を兼ねているようなので、置物の配置などが実際とは違うようにも思いましたが、窓の造りなどは日本の障子を思わせるようなものになっていて、なかなか面白いなぁと思いました。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます写真をクリックすると大きな写真を見ることができます左の写真は、「涙の泉(Фонтан слез)」と呼ばれるものです。これは、1764年、愛妻を亡くしたハーンが、その深い悲しみを示すために、涙のようにひとしずくひとしずく流れ落ちる噴水として造らせたものだそうです。1820年9月、この宮殿を訪れた21歳のプーシキンが、この話を聞いて、それを詩に残しました。そのため、この「涙の泉」は広く世に知られるようになったそうです。泉の脇に立っているの写真をクリックすると大きな写真を見ることができますは、そのプーシキンの像です。

左の写真は、ハーンの末裔の娘、ではなくて、中庭で写真屋さんがクリミア・タタール人の服を観光客に貸し出して写真に撮ってくれるのですが、そのシーンを横から写したものです。私も撮ってもらったらいかがですかと館長さんにも勧められましたが、たった一人の東洋人ということでただでさえ目立っているので、丁重にお断りしました。
| in Crimea | 17:32 | comments(0) | - |
バフチサラーイとクリミア・タタール人
バフチサラーイ(Бахчисарай)は1441ないし43年から1783年までクリミアに存在していたクリミア・ハン国(クリム・ハン国)のハーンつまり国王の宮殿があった町、つまり首都だったところです。クリミア・ハン国は、初めキプチャク・ハン国の分国として成立しましたが、1475年にオスマン帝国の支配下に入りました。その後、クリミアにロシアが進出し、1783年にロシアがオスマン帝国との戦争に勝利した後、クリミア・ハン国はロシアに併合されました。

クリミア・ハン国の中心民族はクリミア・タタール人(Крымские Татары)でしたが、1790年代および1850-60年代の2度にわたって、この地へのロシア人の入植・流入が進み、クリミア・タタール人はクリミアでもマイノリティーとなってしまいました。人口は、統計によると、1897年に18万6,200人(クリミア総人口の34.1%)、1921年に18万4,600人(25.9%)、1939年に21万8,800人(19.4%)でした。しかし、クリミア・タタール人の運命にとって決定的かつ悲劇的だったのは、第2次世界大戦中の1944年5月12日にドイツ軍がこの地から撤退した直後の5月18日に、スターリンの決定により、すべてのクリミア・タタール人(人口23万8,500人)の、中央アジア、シベリア、ヴォルガ中流域への強制移住が開始されたことでした。この強制移住の結果、その人口の実に46%が失われました。

戦後、1960年代からクリミア・タタール人のクリミアへの帰還が始まりましたが、国家的な名誉回復がなされなかったために帰還は進まず、ようやくペレストロイカの時代の1989年になってから大量の帰還が始まりました。クリミア・タタール人のクリミアへの帰還は1990年代にますます増加し、2001年12月5日の調査ではクリミア・タタール人の人口は24万3,433人(クリミア自治共和国総人口の12.0%)、現在では、約27万人(13.5%)とされています。

強制移住されているあいだにクリミア・タタール人が住んでいた場所には、ロシア人やウクライナ人、あるいはそのほかの少数民族が流入してきたため、クリミア・タタール人が帰還してきたときに、そこに居住していた住民と帰還してきたクリミア・タタール人とのあいだに軋轢が生じます。実際、この問題はソ連末期からソ連崩壊後しばらくのあいだは報道されていました。しかし、最近はそういった報道もないので、その後、どのような状況になっているのだろうかというのが、私の関心事の1つでした。

シンフェローポリで、クリミア・タタールの歴史や文化を研究している大学以外の専門的研究機関は、クリミア・タタール芸術博物館と民俗学博物館ですが、前者は同じ場所にある美術館の分室に過ぎず、政治的あるいは社会経済的な情報は得られませんでした。民俗学博物館では歴史や風俗のほかに、人口統計などのある程度の社会経済的情報が得られましたが、政治的なことはわかりませんでした。ですから、バフチサラーイに来たら何かわかるかも知れないと少し期待を持っていました。なぜならば、ハーンの宮殿は、実は博物館になっていて、この博物館の館長であるエブベキーロフさん(Сервер Эбубекиров 下の写真)は、日本の学会に参加するために来日したことがあり、もちろん政治が専門ではありませんが、親日的ということらしいので、お会いできれば何か教えてくれるかもしれないと考えていたのです。

エブベキーロフさんは、クリミア・タタール人とロシア人やウクライナ人との軋轢は、大量帰還の始まった当初はあったが、現在は落ち着いている、と仰っていました。私も、シンフェローポリ、バフチサラーイ、あるいはイェフパトーリアなど比較的クリミア・タタール人が多いとされる地域に行き、クリミア・タタール人やそれ以外の民族のイスラム教徒たちとイスラム寺院でずいぶん会いましたが、とくに激しい対立があるというような話は聞きませんでした。
| in Crimea | 14:54 | comments(0) | - |
列車と電車
4月18日(水)、ヤルタから例の山越えのトロリーバスに乗って再びシンフェローポリに戻り、この町で3泊することにしました。

翌19日(木)、シンフェローポリ駅から電車(электричка)に乗って、バフチサラーイ(Бахчисарай)に出かけました。

私は鉄道の技術的なことはよく知りませんが、ロシアやウクライナでは、たんに「列車поезд」と言うと大都市間を運行する長距離列車のことであり、他方、大都市とその周辺の衛星都市というか近郊の小都市とを結ぶ鉄道のことを「電車」と言うようです。

日本は、大都市間を結ぶ長距離列車である新幹線も、あるいは在来線の特急も、寝台列車を除けば、すべて電車です。それに対して、ロシアやウクライナでは、長距離列車は、ほとんどが電車ではなくて、日本の寝台車と同様に、電気機関車が駆動力のない客車を引っ張る方式のようです。他方、ロシアやウクライナでは、電車というときは、まさに日本の電車と同様です。

つまり、ロシアやウクライナでは、列車と電車の違いは、たんに駆動方式の違いを意味するだけでなく、むしろ運行距離の長短あるいは運行形態の違いを意味するのです。そして、切符の売り場も、大きな駅では完全に分離されています。ロシアやウクライナの駅は概して立派ですが、その立派な駅舎内のカッサで売られているのは「列車」の切符だけで、電車の切符は、駅舎の外の小さな窓口で売られています。

ですから、キエフであれ、シンフェローポリであれ、駅舎内のメインのカッサで近郊都市の名前を言って「電車」の切符を買おうとしても、買うことはできません。カッサの窓口の職員は、例えばキエフ駅のカッサであれば、オデッサまでとか、リヴィウまでとか、あるいはモスクワまでとか、ワルシャワまでとかいった国際列車を含む長距離列車の切符を買いに来る客を待っているのです。日本で言えば、メインのカッサは、「緑の窓口」という感じなんでしょう。

さて、シンフェローポリからバフチサラーイまでは、電車で移動します。シンフェローポリからセヴァストーポリまで、毎日10往復ほど電車が運行されています。バフチサラーイに行くには、その電車に乗って途中下車するわけです。東京生まれの東京育ちの私にすれば、電車が毎日10往復とはずいぶん少ないと思います。ウクライナでは、近郊との移動は、むしろ中距離バスに依存しています。中距離バスのほうが料金は高いことが多いのですが、頻繁に運行されていて、かかる時間も同じくらいか、むしろバスのほうが電車よりも早く着くことのほうが多いようです。

それにしても電車の料金は驚くほど安く、2時間くらい乗っても2フリヴニャ(約50円)
前後、アイスクリーム1つか2つ分くらいの値段です。

ところで、この日、シンフェローポリからセヴァストーポリ行きの電車に乗るとき、電車の入線直前になって、入線ホームの変更が構内放送で案内されました。うっかり構内放送を聞き逃すと、乗り遅れてしまうことになります。人の動きにも注意を払うことが必要です。私は、ぼーっとしていて構内放送には気がつかなかったのですが、人がぞろぞろ動き出したことで、入線ホームの変更に気づきました。それでも、不安だったので、ホームを移動するために階段に向かって歩き出したインテリっぽい男性に、確認したところ、理由はよくわからないが発車ホームが突然変更になったと教えてくれました。

下の写真は、バフチサラーイからシンフェローポリへ帰るときに、バフチサラーイの駅で写した写真です。写真ではわかりにくいのですが、この日は午後から天気が崩れ、小雨が降っていたのでホームが濡れています。写真の電車(車体番号ЕР1-33)は、シンフェローポリ発セヴァストーポリ行きの電車で、いま到着したばかりです。写っているのは電車の先頭ではなくて最後尾です。二人連れの女性が歩いているのがホームです。恐ろしく低くて狭いホームです。このようにホームが低いので、ロシアでは電車や列車の床から2段か3段くらいの階段が下がっていて、乗車や下車の際にはその階段を昇り降りしなければなりません。ですから、ロシアやウクライナでは、健常者でも重い荷物を持っている場合は、列車や電車の乗り降りはけっこう大変なのですが、車椅子に乗っている人が列車や電車を利用するのは絶望的なくらいに大変です。そもそも、ロシアやウクライナでは、大都市の中心部で、大通りを横切るのに、横断歩道ではなく、地下通路を通らなければならないところが多く、車椅子利用者が一人で街歩きをしたり公共交通機関を利用したりすることは、最初から考えられていません。いわゆるバリアフリーの考え方が日本で普及し始めたのは、1980年代以降のことだと思いますが、それでも今は、多くの駅にエレベーターが設置され、病院はもちろん、官公庁や学校などの公共の建造物を手始めに、最近の新しいビルは、段差がある場所にスロープを設けるか、もともと段差がないように設計されています。しかし、ロシアやウクライナの都市では、古い建物も多く、その建物の段差にスロープを設けたりする改造もしていないので、バリアフリーにはほど遠い状態です。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

下の写真は、セヴァストーポリ行きの電車が到着して数分後に、今度は、逆方向のセヴァストーポリ発シンフェローポリ行き電車(車体番号ЕР1-48)が到着したところです。これは電車の先頭です。この電車が私の乗るべき電車というわけです。今まさに停車しようとするところですが、まだ完全には停車していないので、ドアは開いていません。
写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

車内の写真ですが、バフチサラーイ15:41発ということで、昼間の電車なので、とてもすいています。座席は、木製で、文字通りベンチという感じです。ロシアやウクライナは線路の幅が広く、車体も幅が広いので、座席は、真ん中の通路を挟んで、両側それぞれ3人がけです。今回、ウクライナ滞在中、シンフェローポり、オデッサ、ウシュホロドなどで、何回も電車に乗りましたが、電車の座席がこの写真のような木製ではなく、クッションのあるビニル製だったことは1回しかありませんでした。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

ロシアもウクライナも、電車は労働者向けの安価な乗り物という感じで、古い車体が多く、窓ガラスも2重ガラス(複層ガラス)のためなのか透明度が低くて、外から光が当たると外の景色がよく見えません。ホームでは発車ベルはなく、大きな始発駅でもない限りアナウンスはありません。車内放送は、音響機器が悪いせいか音が割れて恐ろしく聴きづらく、内容もそっけないものです。地下鉄の車内放送はモスクワでもキエフでもあんなに聞きやすいのに、ウクライナで車内放送の聴きやすい電車に乗り合わせたことは1度もありませんでした。だから、電車では、車内放送はほとんど頼りになりません。ところが駅名は、よほど大きな駅でない限り、駅舎の壁面などに1ヵ所書いてあるだけというのが普通です。したがって、今どの駅に停車しようとしているのか、あるいは停車しているのか、あるいは発車したのかは、地図を片手に、列車が停車しようとしているとき、あるいは動き出したときに、通り過ぎる駅舎を注意深く見ていないとわかりません。

電車内の物売りが多いことも特徴です。車内の物売りは、結構込んでいる地下鉄でもたまに見かけることがありますが、ウクライナの電車では、今回、どの電車でも必ずありました。日本でも新幹線や特急などでは車内販売がありますが、あれはJR系列の車内販売の会社がJRと契約してやっているものだと思います。ところがウクライナではそんな感じはありません。ひょっとしたら免許というか許可が要るのかもしれませんが、普通のおじさんおばさんが物売りをしているという風情です。売っているものも多種多様で、新聞、ビールなどの飲み物、ピロシキなどの調理パン、ポテトチップスなどのお菓子といったものは基本中の基本で、そのほか雑貨やちょっとした衣類、ある種のアイデア商品だと思いますが、小さく折りたためる買い物用のキャスターつきバッグなど、乗客がいかにも興味を持ちそうなものを売りにきたりします。1回だけ、オデッサだったと思いますが、アコーディオン引きのおじさんが乗ってきたことがありました。いわゆる「流し」ですが、いかにもですね。
| in Crimea | 12:01 | comments(0) | - |
ヘルソネース・タヴリーチェスキー
セヴァストーポリ郊外、中心街から入り江一つ超えてさらに西方に行ったところに、黒海沿岸のこの地が、かつて古代ギリシアの植民都市であったことを示す古代都市遺跡ヘルソネース・タヴリーチェスキー(Херсонес Таврический)があります。セヴァストーポリを訪ねたもう一つの理由は、この古代遺跡を見ることでした。私はギリシアに行ったことがありませんが、旧ソ連地域に残されている古代遺跡を見た経験は、過去に1回だけあります。それは、アルメニアの首都イェレヴァン近郊にあるズヴァルトノーツ(Звартноц)という7世紀の寺院跡です。石の床と円柱の基礎部分だけが残されているだけの小さな円形の寺院跡でしたが、円柱は、まさにギリシア様式でした。しかし、床も円柱も使われている石材は、白い大理石ではなく、灰色の石材でした。その点では、ヘルソネースの遺跡は、石材に一部、白い大理石が使われていて、かなりギリシア風に見えます。それに何よりも、青い海のすぐ近くにあるというのが、いかにも地中海のギリシア遺跡のようで、天気もよく、とても晴れていたので、その美しさに感動しました。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

このヘルソネース・タヴリーチェスキーの古代遺跡の近くに、ウラジーミル1世を記念して建立されたウラジーミル聖堂があります(写真下)。比較的新しい教会です。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます写真をクリックすると大きな写真を見ることができますウラジーミル1世は、ウラジーミル大公とも呼ばれ、10世紀末から11世紀初めにかけて、初めノヴゴロドの、そしてのちにキエフの大公(Князь)となった人物で、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)皇帝の妹との結婚を機にギリシア正教に改宗し、ルーシの地にギリシア正教をもたらした人物として歴史上に知られています。ヘルソネース・タヴリーチェスキーの古代遺跡とウラジーミル聖堂のある広い敷地に入る手前に、そのウラジーミル1世像がありました(写真左)。
ちなみに、昨年、ロシアでは、アニメ映画『ウラジーミル大公』が製作・公開されて話題を呼びました。
| in Crimea | 18:33 | comments(0) | - |
セヴァストーポリ
4月17日(火)、私は、ヤルタから日帰りでセヴァストーポリ(Севастополь)に行きました。セヴァストーポリは、クリミア半島の西部にある軍港の町です。ここは、クリミア戦争などで大変な激戦地となったところとして歴史上有名です。

私は、ソ連崩壊後にロシアとウクライナとのあいだで係争問題となった黒海艦隊分割問題とセヴァストーポリ軍港使用権の問題との関連で、その後のセヴァストーポリにおけるロシアのプレゼンスの変化に興味があっただけなので、この町には宿泊せずにヤルタからマルシュルートカ(ミニバス)を使って日帰りで済ませましたが、クリミア戦争やロシア海軍の歴史や装備に関心のある人は、セヴァストーポリに泊まって、ゆっくりと博物館を見たり、町歩きを楽しむのもいいと思いました。ちなみに、ヤルタからのマルシュルートカでの移動の所要時間は約2時間、料金は20フリヴニャ(約500円)です。

さて、黒海艦隊分割問題とセヴァストーポリ軍港使用権の問題ですが、この問題は、長い交渉の末、最終的にはロシアとウクライナとのあいだでいくつかの協定が締結され、黒海艦隊は2分割、またロシア海軍の軍港使用についてはロシアがウクライナに対して使用料を支払う(実際にはウクライナのロシアに対する石油・天然ガスの支払いと相殺)ことにより軍港の一定部分を継続使用するということで決着がつきました。

写真をクリックすると大きな写真を見ることができますしかし、街を歩いてみて、ここはロシアだ、と私は思いました。軍港の主要部分は、町の中心部から離れたところにあって、外部からは見えないようになっているはずだし、軍事的な興味はないので、私は見てもいませんが、街の中心部を歩いている限り、ロシアのプレゼンスは圧倒的なものだと感じました。左の写真は、ロシア軍の施設の入口の鉄扉ですが、ロシア国旗と軍艦旗がデザインされていて、色鮮やかです。

私は、セヴァストーポリの鉄道駅に隣接するバスターミナルでマルシュルートカを降りて、セヴァストーポリの中心街に向かってだらだら坂を登っていったのですが、その道の右側(東側)は、南湾という入り江になっていて、そこはロシアの修理工廠になっているようでした(下の写真)。つまり、セヴァストーポリの中心部にロシア海軍施設があるのです。
写真をクリックすると大きな写真を見ることができます左の写真は、上の写真の船体の先端部分を拡大したものです。ロシア国旗が描かれているのがよくわかります。
それだけではありません。海に面した台地上に発展しているセヴァストーポリの中心街の、そのまたひときわ高くなった高台の一等地には、ロシア海軍司令部がありました(下の写真)。
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またメインストリートのナヒーモフ大通りに面して海の見える見晴らしのよい場所にずいぶん立派な建物があるなと近づいて見ると、屋根の上にはロシア国旗がはためいていて、入口には、「ロシア連邦海軍黒海艦隊水兵クラブ」と書かれた(もちろんロシア語で)プレートがついているのです。尖塔部分を拡大してみるとロシア国旗がはためいているのがよくわかります。
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それにしても、セヴァストーポリは豊かです。もともと立派な建物が多い町ですが、目抜き通りの化粧直しが進んでいて、ますます立派な町になるでしょう。ヤルタからすると、やはり活動的な都会という印象を受けました。
| in Crimea | 14:03 | comments(0) | - |
ヤルタの街歩き
ヤルタはそう大きな町ではありませんが、熱海や湯河原ほどではないにせよ、海岸近くまで山が迫っているので、坂の多い町です。とくに私の宿泊したクリムスキー・ホテルは、センターからの距離は近いのですが、高台にあるので、港近くのヤルタの中心部との往復には急な坂道を登り降りするので少し大変でした。

ヤルタの街歩きは、それこそ『犬を連れた奥さん』の主人公グーロフよろしく、海岸通りをぶらぶらと散歩し、歩き疲れたら海岸通り沿いのカフェにでも入って、青い海を眺めながらビールを飲むのがよいのかもしれません。しかし、海岸通りも2、3回歩けばすぐに飽きてしまいます。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます写真をクリックすると大きな写真を見ることができます「チェーホフの家」を訪ねるなどもおもしろいのでしょうが、少し郊外に出れば、リヴァーディア宮殿やマサーンドラ宮殿などもあり、街歩きというよりは、私のようにマルシュルートカ(ミニバス)で少し遠出をして過ごすほうが楽しいところかもしれません。確かに観光資源は豊富で風光明媚なところにはこと欠きません。

もちろん海岸通りは別にして、ヤルタ市街でそのほかに気に入った場所と言えば、アルメニア教会です。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます
ヤルタ旧市街地の比較的奥のほうの山添の急斜面に立つ、立派な教会です。アルメニア教会の内部はたいていの場合、いたって質素なつくりになっていて、このアルメニア教会も例外ではありませんでしたが、建物はどっしりとした重厚なつくりです。内部は、質素ですが、それでも天井の装飾はたいへん美しいものでした。色使いが、どことなくイスラム的な感じもしますね。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます
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写真をクリックすると大きな写真を見ることができますヤルタの旧市街を歩いていると、ホテルにしても、なかなか立派な建物があります。そして、山の手の新開発地区では、新しい高層リゾートマンションの建設が進められています。

観光資源の豊富なヤルタは、西欧の観光資本などが入ってきて、これからもどんどん発展していきそうな気がしました。

| in Crimea | 00:02 | comments(0) | - |
マサーンドラ宮殿
マサーンドラ宮殿(Массандровский дворец)は、アレクサンドル3世の時代の宮殿です。ヤルタのバスターミナルから、2番または3番の市電で終点まで行き、そこから森の中の道を20分ほど登ったところにあります。ゴシック様式の、いわゆる西洋のおとぎ話に出てくるような宮殿ですが、離宮として使われていたのですから、あまり大きくはありません。地味な宮殿だからでしょうか、『地球の歩き方』には紹介されていませんが、私としては、「ツバメの巣」よりは、行く価値はあるのではないかと思いました。

庭園を見るとバラがたくさん植えられていたので、バラの花の見ごろ、おそらくは6月頃から夏にかけてが訪れるのに相応しい時期かもしれません。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

また、マサーンドラ宮殿から見るヤルタ市街もなかなか美しい眺めでした。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

ところで、「マサーンドラ(Масандора)」(ウクライナ語の綴りでは「с」は1つでよい)は、クリミア・ワインのブランドとして有名ですが、この宮殿のある付近にワイナリーがあります。とくにマスカット種の甘口の白ワインがお勧めです。白ワインといっても琥珀色をしていて、貴腐ワインのような感じです。かなりの高級品もありますが、10-20フリヴニャぐらいのものでも十分に美味しかったです。
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