RUSSIAN POLITICS / UENO'S SEMINAR
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このブログの管理人(上野俊彦)の見解は管理人個人のものであり、管理人の所属する上智大学を代表するものではありません。
広告は管理人および管理人の所属する上智大学とは無関係です。掲載されている写真はとくに断りがない限り管理人が撮影したものです。

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リヴィウからウージュホロドへ向かう寝台列車で
ウージュホロド(Ужгород)は西ウクライナの、そのまた西のはずれ、ポーランド、スロヴァキア、ハンガリーとの国境近くにあるザカルパーチエ(Закарпатье)州の州都です。ザカルパーチエの「ザ」は、ロシア語などで、「向こう側の」とか、「背中側の」といった意味があります。例えば、ザカフカージエというのはカフカース(コーカサス)山脈の「向こう側の」地域を意味していますし、ザバイカーリエはバイカル湖の「向こう側の」地域を意味しています。この場合、どこから見て「向こう側」かというと、モスクワやサンクト・ペテルブルクから見て「向こう側の」という意味になりますから、ザカルパーチエはカルパチア山脈の西側の地域を意味しますが、ザバイカーリエはバイカル湖の東側の地域、つまり極東を意味しています。したがって、ザカフカージエはカフカース山脈の南側の地域を意味します。

ザカルパーチエ州の地域は、キエフ・ルーシの時代に一時期、ルーシ(ロシア)の支配下にあったこともありましたが、中世以来、長くハンガリーの支配下にありました。しかし、第1次世界大戦で、ドイツとともに戦ったオーストリア・ハンガリー帝国が敗北したため、ザカルパーチエは、ベルサイユ体制の下で、オーストリア・ハンガリー帝国から分離独立したチェコ・スロヴァキア領に組み込まれました。ところが、第2次世界大戦後、ハンガリーから切り離されてソ連ウクライナ共和国へと併合されました。したがって、この地域は中世以来、第2次世界大戦後まで、ロシア(帝国)あるいはソ連領にならなかった地域です。

ここに行こうと思ったのは、リヴィウに行こうと思ったのと同様、ウクライナにおけるそれら地域の政治的、文化的、経済的な位置づけを実際の目で確認したかったこと、それら地域の人々の考え方や暮らしぶりを見たかったからです。昨年のカリーニングラート旅行以来、ロシアやウクライナの「西域」に対する興味がつのっていたのです。

5月1日(火)、ウージュホロドへはやはり列車で移動しましたが、キエフからやってきてリヴィウに途中停車し、リヴィウを4:50に発車、ウジュホロドに11:37に着く寝台列車に、明け方近くになって途中乗車するというものでした。夜明け前の4:50に乗車するのですから、市内の公共交通機関のまったく走っていない時間帯に、ホテルから駅まで移動しなければなりません。さすがにこのときばかりはタクシーを利用しました。翌朝4時にホテルにタクシーが来てくれるよう、前の晩にホテルのフロントに、タクシーの予約をしてもらいました。タクシーは時間通りに来てくれて、駅まで15分くらいの道のりを規定の料金である7フリヴニャ(175円)で行ってくれました。

寝台車に乗って、少しうとうとしたと思ったら夜が開けて、しばらくすると同室の人たちが目を覚まし始めました。私は2段ベッドの下の段で、上の段には私と同じくらいの年齢の中年の男性、向かい側の下段はやはり中年の女性、その上段は比較的若い30歳前後の男性でした。中年の男性と女性は、相次いでカルパチア山中の駅で降りていきました。最後に残った私と30歳くらいの男性とで、朝食を食べながらあれこれ話をしているうちに、歴史や名所旧跡の話になったら、彼が自分が住んでいるムカーチェヴェ(Мукачеве)に立派な城があるから、ぜひそこを見るべきだと言いました。終点のウージュホロドまで行ったら戻ることになるので、むしろムカーチェヴェで下車してしまって、お城を見たあと電車でウージュホロドまで行ったほうが合理的かもしれないという話になり、彼と一緒にムカーチェヴェで下車することになりました。

彼は列車から奥さんに携帯で電話をしていましたが、駅に着いたら、お父さんが車で迎えに来ていました。車は年代もののベンツでした。私は例のように駅の手荷物預かり所に荷物を預けて、彼のお父さんの車に便乗しました。お城まで送ってくれるのかなと少し期待していましたが、駅から少し離れたところにある町のセンターで停まって、あそこに停まっている15番のマルシュルートカ(ミニバス)に乗るとお城まで行けると教えてくれました。そういうことか、と納得して、お父さんと彼に丁寧にお礼を言って、ベンツを降りました。しかし、駅からセンターまで彼に誘われるままに彼のお父さんの車に乗ったため、ムカチェヴェからウージュホロドまでの電車の時刻表を見ずに来てしまったこと、駅とセンターまたは駅とお城を直接結ぶマルシュルートカがあるのか、あるとしたら何番なのかを落ちついて調べたり人に聞いたりするのを忘れていました。こういうときは帰りが少し不安です。まあ、地図で見るとムカーチェヴェとウージュホロドは50キロメートルぐらいの距離なので、いざとなればタクシーでも何でも使えるとは思いましたが。
| in Lviv | 23:02 | comments(0) | - |
ご飯が食べたくなったら
私はご飯とお味噌汁が無ければ生きていけない、というようなことはまったく無くて、ロシアでもウクライナでも、長期滞在していて、食事に困ることはありませんが、それでも、ときどきご飯が食べたいと思うことがあります。そういうときは、たいてい中華料理店か韓国料理店に行きます。日本料理店は味の割りにものすごく高いので、地元の知人にぜひ日本料理をご馳走しようと思うとき以外は行きません。

ウクライナでは、たまたま手ごろな韓国料理店を見つけられませんでしたが、オデッサとリヴィウでは、便利なところにある中華料理店を見つけて、出かけました。見つけ方は、ホテルの部屋に置いてある電話帳です。電話帳には、住所が載っているので、直接に電話をかけて場所を聞かなくても大丈夫です。

とくにリヴィウの「北京」という中華料理店は、インテリアが凝っていて、多分、地元の人には大うけなのではないかなと思います。昼食なので、ビール、チャーハン、卵スープ、ジャスミン茶だけでしたが、夜もいけそうだと思います。暗さのせいでカメラがぶれてしまって、肝心のチャーハンの写真がうまく撮れなかったのですが、お店の雰囲気は下の写真でわかっていただけるでしょう。お店の場所は、グルシェフスキー通り(вул. Гуршевського)8番地です。若い中国人のコックがいて、味はまずまずだと思いました。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます
| in Lviv | 20:45 | comments(0) | - |
美味しいケーキとコーヒーのお店
リヴィウで地元の人たちに評判の、美味しいケーキとコーヒーのお店があると聞いて、そのお店の住所を教えてもらって、行ってみました。お店の名前は、「ツケールニャ・ソーロドシ(Цукерня Солодощi)」。「甘いお菓子」といった意味でしょう。実際には、「お菓子」という単語と「甘味」という単語が、そのまま並べられているので、「ケーキの店スィート」といった感じになるのでしょうか。住所は、スタロエヴレイシカ通り(вул. Староеврєйська)3番地です。市場(リノク)広場の市電の通りの、1本裏手にある通りで、市の中心部にあります。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

頼んだのは、日本で言うところのカフェオレとチョコレートケーキのザッハトルテです。面白いことに、カフェオレは、コーヒーと温めたミルクとが別々に出てきて、客が好みに応じて混ぜることができるようになっていました。初めはブラック、そしてだんだんとミルクを増やしていく、なんていう飲み方ができるかも知れませんが、私は、最初にブラックを少しすすったあと、一挙にミルクを全部入れてしまいました。ケーキのほうは、甘過ぎるというのとは違って、こってり感のあるチョコレートが使われていて、日本のチョコレートケーキとは少し感じが違います。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

お店のインテリアはなかなか素敵ですが、写真は増感しているのでわかりにくいと思いますが、かなりほの暗く、日本のケーキ屋さんとはまったく違って、バーのような雰囲気です。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます
| in Lviv | 18:48 | comments(2) | - |
リヴィウの田舎
リヴィウの16番のトロリーバスか、77番か78番のバスで終点まで行くと、州立結核療養センターがあります。大きな病院があるほかは、その周りは深い森になっています。その停留所で降りて、そのまま道路を歩いていくと、停留所から200メートルほど行ったところでトロリーバスがぐるりとUターンできるようなロータリーがあって、そこで道路はおしまいです。でも、森の中に、草が踏み分けられた道が続いています。車は中に入れません。ゆるい起伏のある森の中をどんどん歩いていきます。赤ずきんちゃんが狼と出会うような森というのは、こんな森なんだろうなというような、そんな森です。西ウクライナの森は、針葉樹や白樺は少なく、日本の原生林のように照葉樹と呼ばれる種類の木が多いように感じました。若葉の緑、タンポポ、木漏れ日、春の風、鳥のさえずり、微かに聞こえるせせらぎの音、そんな中を歩いていきます。例えば、東京郊外の高尾山の森などに比べると、湿気が少なく、じめじめした感じがなくて、さわやかな感じです。

途中、向こうから歩いてくる人に出会いました。親子連れで、きっと町に買い物にでも出るのでしょう。オデッサで、あまりに日差しが強くて買い求めた帽子をとって、「こんにちは」とこちらから先に声をかけます。ふっと相手の警戒する心が解けるのがわかります。もちろん、向こうも挨拶を返してきます。

森の中の道はゆるい起伏のある丘の上を進んでいきますが、ゆっくりと歩いて1時間くらいしたところで、木々のあいだに集落が見え始め、道は下り坂になって行きます。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

着いたところは、ヴェレジャニ(Бережани)村という森に囲まれた村です。こういう風に歩いてくると、実はリヴィウが小高い台地の上にある町で、その台地の中央部に城壁を築いて町の中心とし、東南の方向に向かっていくと、リヴィウの町が乗っている台地を侵食した谷があって、さらにその谷が広がって低地になっていくという、だいたいの地形がわかってきます。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

春の農村はのどかです。ここでは、キエフの政治集会も遠い出来事のようです。時間がゆっくりと流れていきます。それでも、人々の暮らしぶりは、確実に変わってきています。市場経済の発展が、人々の暮らしを変えつつあるのです。その意味では、首都の政争も、本当は無縁ではないのです。
| in Lviv | 18:16 | comments(0) | - |
世界遺産が泣くゴミ投棄
オデッサのところでも書きましたが、ウクライナは、ゴミ問題が深刻です。かつて高度経済成長期の日本もそうでした。東京湾に「夢の島」というゴミの埋立地がありましたが、ゴミの処理に悩まされてきました。郊外の空き地には不法投棄されたゴミがあちこちにありました。いま、ウクライナがそうした状況です。

日本では喫煙人口はずいぶん減り、限られた場所でしか喫煙できなくなりましたが、かつては喫煙人口は今よりもずっと多く、どこでも煙草が吸え、吸殻がそこらじゅうに捨てられていました。今でも、吸殻のポイ捨てはありますが、以前よりは、少なくなったと思います。いま、ロシアやウクライナの喫煙人口はかなり多く、煙草の吸殻は、お構いなしに道路にポイ捨てされています。

そして、ひどかったのが、この「高い城砦」。リヴィウを一望できる名所ですが、ごらんのとおりビール瓶の破片だらけ。ビニル袋ひとつ分だけ拾って下山しましたが、きりがないくらい沢山ありました。この山にはゴミ箱がなく、夜景を見るために登って、ビールやワインを飲み、大騒ぎして、そのあとその空き瓶を残していくのでしょう。あるいはわざと割っているのかもしれません。

落書きもひどいです。この「高い城砦」のいたるところ、文字通り、所狭しと落書きがしてあります。

私は、いくつかの場所で、落書きをしている人を見かけました。日本でも観光名所に「○○参上」(○○は自分の名前)とか、たんに年月日と名前だけを書いていったり、中学校や高校の修学旅行なのか、わざわざ学校の名前を書き残している落書きを見たことがありますが、ウクライナ、とくに西ウクライナはひどいと思いました。しかも、人がいる前で、臆することなく落書きをし、ほかの人もそれを黙認しているのには、少し驚きました。注意すると何をされるかわからないから注意しないというのもありますが、子どもがやっていても注意する人はいません。そもそも、大人が、みなその辺にゴミを捨てるのを気にかけないし、吸殻を道路に捨てるのがむしろ当然という感じなのですから、何も感じないのかもしれません。

一度だけ、りんごの食べかすを市電の窓からポイッと投げ捨てた子どもをおばあさんが叱っているのを見かけたことがありましたが、子どもは無言で、プイっと体の向きを変えただけでした。

オデッサの考古学博物館長の「社会的責任意識の欠如」は、この吸殻やゴミのポイ捨てにも現われているのです。朝までに市で雇われた清掃業者が掃除をしていきますが、「高い城砦」や、空き地のゴミまでは掃除されません。

たまに日本でも吸殻入れのないところ、例えば横断歩道で、信号待ちしている人が煙草をすっているのを見かけます。さて、その吸殻はどこに行くのでしょう。
| in Lviv | 17:24 | comments(0) | - |
リヴィウの歴史
オデッサを4月25日(水)21:09の寝台列車で出発し、リヴィウに到着したのは4月26日(木)9:09でした。このときの寝台車は、比較的新しい車両で、5月17日の日記に書いたように、とても綺麗でした。

世界遺産にも登録されているという古都リヴィウの街は、やはり素晴らしいものでした。ドレスデン、プラハといった中欧の古都に似て、そしてそれに勝るとも劣らない美しさです。下の写真は、市民の憩いの場ともなっている、市の中心部、市庁舎の立つ市場(リノク)広場です。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

目的もなく、ただ散策していても街並みが美しく飽きません。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

これは市場広場に面した商家の建物です。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

しかし、私は、そうしたリヴィウの街を歩き、歴史博物館などを見ながら、首都キエフの独立広場や大統領官邸前の喧騒を思い出していました。西欧派と親露派とのせめぎあいが続く首都キエフで聞いた何人かの若者の意見は、クリミア、オデッサ、そしてリヴィウと歩いてきた私には、無責任なもののように思えてきました。例えば、親露派の反対を抑えて西欧派がEU・NATO加盟を強行しようとすれば、東ウクライナはロシアと併合の道を選ぶかもしれません。ウクライナの工業の主要部分である東ウクライナとロシアからのエネルギーなしで西ウクライナは立ち行くのでしょうか。他方、親露派がこれまで以上にロシアとの結びつきを強めようとすれば、ここリヴィウの歴史博物館の展示に示されているような西ウクライナの西欧派のロシアに対する嫌悪感と中欧への帰属意識が、西ウクライナの分離独立をもたらしてしまうかもしれません。

いったいウクライナとは何なのでしょうか。何がウクライナなのでしょうか。リヴィウの街を歩いていると、こうした疑問がわきあがってきます。

リヴィウ郊外にリチャキフ霊園という大きな墓地があります。『地球の歩き方』が言うように「東欧で最も美しい」かどうかは知りませんが、ここの墓地で墓碑銘を見て歩くと面白いことに気づきます。古いお墓の墓碑銘のほとんどはポーランド語で書かれています。亡くなった方の名前もポーランド風。そしてその後に造られたお墓の墓碑銘のほとんどはロシア語で書かれていて、モスクワやペテルブルクにあるお墓と同じように、勲章をつけた肖像画が描かれたりしています。そしてウクライナ語で書かれた墓碑銘を持つお墓は比較的新しいものばかりです。それもそのはずで、この町が13世紀に歴史に登場して以来、1772年の第1次ポーランド分割までと、1919-39年のあいだ、つまり過去500数十年は、ここはポーランドだったのです。そして、それ以外は、1370−87年のわずか17年間がハンガリー領で、1772-1919年の130余年間はオーストリア領でした。1939-1991年は、ソ連の一部であり、そのあいだに造られたお墓はロシア語で書かれたものが多いわけです。

リヴィウの歴史博物館の展示では、1918年11月11日の第1次世界大戦におけるドイツ・オーストリアの敗北の2日後の11月13日に独立が宣言された「西ウクライナ人民共和国」について、多くのスペースが割かれていました。ロシア史、あるいはロシア革命史を勉強した私にとって、キエフに設立されたラーダ政府とボリシェヴィキの戦い、ラーダ政府のあとに設立されたドイツ軍の傀儡政権については、ある程度の知識を持っていましたが、第1次世界大戦当時、オーストリア帝国領であったリヴィウの状況は、私の知識の埒外であったため、リヴィウの歴史博物館の展示は、非常に興味深いものでした。ラーダ政府は、ボリシェヴィキと戦いましたが、このリヴィウに首都を置いた「西ウクライナ人民共和国」、あるいは「ガリツィア(ウクライナ語ではハーリチナ)・ウクライナ人民共和国」とも呼ばれた生まれたばかりの国家は、ポーランドと戦ったのです。

第1次世界大戦前に中東欧に君臨していたドイツとオーストリア両帝国が崩壊したあと、東欧の雄として立ち上がったのはポーランドでした。そしてポーランドは、この「西ウクライナ人民共和国」の領域をポーランドに併合しようとしたのです。当時、もともとリヴィウ市民にはポーランド人のほうが多かったため、ここを首都とするウクライナ人の国家の創設には無理があったと思われます。首都リヴィウでポーランド人とウクライナ人の内戦が起こったのです。この内戦はポーランド人の勝利に終わり、この地域はポーランド領となるのです。

このポーランドの領土的野心は、ドイツ弱体化を図りたい英仏によって黙認され、あるいは奨励さえされました。かくして、「西ウクライナ人民共和国」は1919年1月にはリヴィウを放棄、その後しばらくして雲散霧消してしまいます。第1次世界大戦前はロシア帝国内の内陸部の一地方に甘んじていたポーランドは、英仏の支援のもと、ベルサイユ条約によって、バルト海に面し、現在のウクライナおよびベラルーシの西部、リトアニアの南部をも含む東欧の大国となりました。

「西ウクライナ人民共和国」は、歴史的に存在したと言えるのでしょうか? リヴィウに住むウクライナ人にとっては確かに存在したと言えるでしょうが、ポーランド人やロシア人にとっては歴史の一コマを彩る小さなエピソードに過ぎないと思われます。

西ウクライナの独立の可能性は、第2次世界大戦時にも生じます。早くも1920年には、プラハでウクライナ民族主義者の亡命武装組織「ウクライナ軍事組織」がつくられ、1929年に「ウクライナ民族主義者組織」に拡大され、ポーランド内相、リヴィウ警察署長、在リヴィウ・ソ連領事らが暗殺されました。この組織は、第2次世界大戦が始まり、西ウクライナをドイツ軍が占領すると活発化し、ドイツ軍ウクライナ民族主義者部隊も組織され、1941年6月30日にリヴィウでウクライナの独立宣言が出されましたが、これはドイツにも認められませんでした。1941年には新たに「ウクライナ蜂起軍」がつくられ、ドイツともソ連とも戦いましたが壊滅しました。この時期の西ウクライナの民族主義者たちは、ナチス・ドイツに協力した面もあり、戦後、ソ連ではナチスの手先として強く非難されました。

こうして考えてみると、西ウクライナの中心都市であるリヴィウの歴史は複雑だと言わざるを得ません。ロシアとも、ドイツとも、ポーランドとも戦ってきた西ウクライナの民族主義者たちは、歴史の荒波に翻弄され続けています。
| in Lviv | 13:25 | comments(0) | - |
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