RUSSIAN POLITICS / UENO'S SEMINAR
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このブログの管理人(上野俊彦)の見解は管理人個人のものであり、管理人の所属する上智大学を代表するものではありません。
広告は管理人および管理人の所属する上智大学とは無関係です。掲載されている写真はとくに断りがない限り管理人が撮影したものです。

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オデッサ郊外
今回の旅行では、写真はあまり撮っていませんが、実は、名所旧跡よりも普通の農村地区に多く行きました。例えば、オデッサでは、市電を利用して、郊外の農村地区に行けるので、市電を多用しました。オデッサの市電は、新旧の車両が入り混じっていますが、20番系統以外は、比較的新しい車両が投入されていて、車内には電光掲示板があって停留所を示しています(下の写真)。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

こうした市電に乗って郊外の終点まで行き、そこからしばらく歩くと、かつてステップの大草原だった広大な農地に出ることができます(下の写真)。農家は、広大な農地の周辺部分にまとまって集落をなしています。農家の庭先は、たいてい小さな菜園や花壇になっていて、そこで年寄りが庭いじりなどをしている光景をしばしば見かけます。変な外国人だと思われないように、目が合ったら、すかさずこちらから「こんにちは」と挨拶をすることが大切です。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

オデッサの周辺は、潟湖が発達した湿地帯の部分と乾燥したステップとがあります。東アジアの気候であれば、さしずめこうした湿地帯は水田になるところでしょうが、こちらでは湿地帯は葦が生い茂った荒地になっていて、しばしばゴミの不法投棄にかっこうの場所を提供しています。いちばん老朽化した車両を使っている20番系統の市電は、そうした郊外の荒地となった湿地帯のヘリをハジベイ潟湖までガタガタと走っていくのですが、この20番系統の市電の車窓から見る湿地帯は、ゴミだらけのひどい荒地となっていました。下の写真は、終点のハジベイ潟湖駅ですが、この駅の周辺も、ゴミだらけです。この駅から5分ほど歩くとハジベイ潟湖に出ますが、湖岸は護岸用のコンクリートの塊が投げ捨てられているように乱雑に置かれていて、とても写真に撮りたくなるような景色ではありませんでした。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます
| in Odessa | 14:36 | comments(0) | - |
オデッサの考古学博物館
下の写真は考古学博物館です。私は、オデッサに到着した4月22日(日)、まず歴史博物館に行って、あとは市内の散策をしたため、この博物館は見学しませんでした。4月23日(月)は休館日なのでビールホロドに行き、24日(火)か25日(水)に見学しようと思っていたのです。そして、24日(火)の朝、さっそくこの考古学博物館に行ったところ、ドアが閉まっていて、ドアに休館の札がついています。ほかには何の掲示もありません。考古学博物館の入口にも、ガイドブックにも、この付近の掲示板などで目にしたポスターにも、いずれも休館日は月曜と書いてあるのにです。私は、何か特別なことがあって開館時間が遅れるのかもしれないと思い直し、午後にまた来てみようと、いったんは、そこを立ち去りました。

ところが、午後になっても開館していません。ロシアやウクライナなでどは、ありがちなことだと言ってしまえばそれまでですが、オデッサには翌日の25日(水)までしかいられないのです。ガイドブックはともかく、現地での掲示やポスターにも示すことなく休館というのはどういうことだろう、ひょっとして明日も閉まっているのだろうかと、あれこれ考えました。もうオデッサには来ないかもしれません。そうすると、この考古学博物館は二度と見れないことになります。そう考えると、なんだかよけいに見たくなってくるものです。確かに現地のガイドブックなどには、見逃せない博物館だと書いてあります。このまま引き下がるわけにはいかない、なんとかできないかと考え、とりあえず、すぐ裏手の文学博物館に行ってみました。

私は、とりあえず文学博物館の受付の女性に、「考古学博物館が臨時休館になっているらしいが、誰か職員はいないのか、連絡は取れないだろうか。できれば、見学したいのだけれど」と言いました。文学博物館の受付の女性は、変な東洋人がやってきて、めちゃくちゃなことを言っていると受け取ったと思います。「ここは、考古学博物館ではなく文学博物館。向こうは向こう、こっちはこっち。こっちは、こっちの仕事をしてるだけ。関係ない」と、けんもほろろの対応です。

私は、それでもあきらめずに、「わざわざ遠い日本の東京から、オデッサの考古学博物館を見に来たのに(これはウソですが)、見れないのはとても残念。何とかならないか。そもそも、休館の理由がわからない。明日の夜にはオデッサを出発するのだが、明日は開館するのかどうか、それだけでも知りたい」となおも食い下がっていると、控え室にいたガードマンやらほかの職員もやってきました。そのうち、話を聞いていた別の職員が、何やら電話をかけています。問い合わせてくれているようです。で、結局、「考古学博物館の入口にもう一度行き、ドアをノックすれば、中に職員がいるので、ドアを開けてくれる。その職員と話をしなさい」ということになりました。

ヤッたぁ、と思ったのですが、そう甘くはありませんでした。確かに、考古学博物館の職員がドアを開けてくれて中には入れましたが、受付のところで、要旨、次のような説明を受けました。「館長の親戚に不幸があり、館長が今日も明日もいないので臨時休館になった。同情するが、われわれ職員は館長の指示に従うしかない」。話をしてくれた職員のほかにさらに2人の職員もそこに来て私の話を聞いてくれましたが、すまなそうな顔をして、また別の機会に来るようにと、慰めてくれただけでした。そんなわけで、私は、この考古学博物館を見損なってしまったのです。

それにしても、博物館という公共施設を私的な理由で休館にしてしまうというのは、やはり問題だと思いました。「自分たちは、社会の一員として、一定の責任を果たしている」という意識、いわば社会的責任意識、が欠如していると感じました。バフチサラーイの博物館の館長さんが、日本から来た私に親切にしてくれ、一般の見学者よりも優遇してくれたことはとてもありがたく感謝しているのですが、このバフチサラーイの館長さんが私的な理由で私のことを優遇してくれたことと、オデッサの考古学博物館の館長さんがやはり私的な理由で博物館を休館にしたこととは、同じことの表裏、つまり根っこは同じような気がしました。本来は、誰に対しても公平にサービスするというのが、公共施設の責務なのではないかと思います。いえ、民間企業であってさえ、いまは公平なサービスが求められているのです。公共施設であるならば、なおさらでしょう。
| in Odessa | 11:35 | comments(0) | - |
ビールホロド・ドニストロフシキーのアッケルマーン城
実は、ビールホロドの市街図は、オデッサでは入手できませんでした。オデッサで、オデッサとその近郊の史跡などを解説したガイドブックを買ったのですが、その中にビールホロドの街について解説があり、挿絵のような小さな地図がそこに載っているだけです。仕方がないので、現地のビールホロドで買おうと思っていましたが、実際に来てみると、こんな田舎町では、市街図がそもそもないのかも知れないと思いました。

とにかくアッケルマーン城(ウクライナ語で Аккерманська фортеця ロシア語で Аккерманская крепость)を目指します。ガイドブックの地図では駅から2キロくらいの距離がありそうでした。地図を見る限り、ビールホロドは、このアッケルマーン城を中心に放射状に造られた、日本風に言えば城下町です。ただし、アッケルマーン城はドニーストル潟湖に突き出たところにあるので、町は城を中心に放射状に造られていると言っても、円をなさずに扇形をしています。しかし、こうした町の造られ方からすれば、まっすぐな道は、すべて城に通じているはずです。

ここは、本当に田舎町で、途中、市場がある若干にぎやかなところがありましたが、商店街というほどのものはできていません。小さな本屋さんがありましたが、やはりこの街の市街図はありませんでした。やがて城跡が見えてきました。田舎町に似合わず、かなり大きな城跡です。

この町は、紀元前6世紀の末にギリシアの植民都市として造られ、ドニーストル川のギリシア語名である、チラス(Tyras)ないしチーラ(Tyra)と呼ばれていました。その後、ローマ帝国、ついでビザンチン帝国の支配下に入り、ビザンチン帝国時代には、砦が築かれ、この町は、「白い城」という意味のアスプロカストロン(Asprocastron)という名前で呼ばれるようになりました。その後、この町は、キエフ・ルーシの支配下に入りましたが、14世紀には、イタリアのジェノア、ハンガリー、ついでモルドヴァの支配下と、支配者が次々に変わります。またこの間、モンゴルの侵攻も受けています。15世紀に入ると、この町は、こんどはオスマン帝国に脅かされ始め、ついに1503年にモルドヴァの支配から完全にオスマン帝国の支配下に移り、トルコ語で「白い岩」を意味するアッケルマーン(Akkerman)という名前に改められました。オスマン帝国は、ポーランド・リトアニア王国、後にはロシア帝国からの攻撃に備えて、ここに強固な城を築きました。現在の城跡は、このオスマン帝国下で築かれたものです。その後、18世紀から19世紀にかけて、この町は、オスマン帝国とロシア帝国の争奪戦の対象となりましたが、1812年に、最終的にロシア帝国領となりました。その結果、この町の戦略的重要性は失われ、城は荒廃してしまいました。その後さらに、ロシア帝国崩壊後の1918年には、ルーマニア領となり、ルーマニア語の「白い城」ないし「白い町」という意味のセタテア・アルバ(Cetatea Albă)と改名され、この地域が完全にソ連領となる1944年まで、そのように呼ばれていました。ソ連領になった後は、「ドニーストル川の白い町」という意味のロシア語のベールゴロド・ドニェストローフスキーという名前になりました。ソ連崩壊後は、そのウクライナ語表記が使われているわけです。

このように、ビールホロド・ドニストローフシキーは、かなり複雑な歴史を持った町ですが、ヨーロッパでは、このようにその土地の支配者がたびたび変わるということは珍しくなく、その意味でも、日本政府が「北方領土」返還要求に際して主張している「固有の領土」という考え方は、ヨーロッパで理解されにくいのは当然ともいえます。この町を「われわれの固有の領土だ」と主張できるのは、誰なのでしょうか?

私が最初に目にした城跡の風景です。この空き地は、かなり広く、私の横では、子どもたちが草サッカーをしていました。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

城跡の背後に見えるのがドニーストル潟湖です。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

手前の部分が、発掘された古代ギリシア植民都市チラス(チーラ)の遺構です。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

かつての栄華をしのぶことができるのは大きな城跡だけで、町にはのどかな住宅地が広がっているだけです。道の先にはドニーストル潟湖が広がります。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます
| in Odessa | 23:13 | comments(0) | - |
ビールホロド・ドニストロフシキー行き電車の中で
4月23日(月)、私は、オデッサ駅8:30発の電車に乗って、ビールホロド・ドニストローフシキー(Бiлгород-днiстровський ロシア語ではベールゴロド・ドニェストローフスキーБелгород-днестровский)に向かいました。電車はのどかな田園風景の中をのんびり走って行きます。途中、一面の菜の花畑(下の写真)があり、少し感動しました。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

やがて、電車は、ドニーストル(Днiстер)川を越えるのですが、ドニーストル川は河口付近で自ら運んだ土砂を堆積させて砂洲をつくり、その砂洲がドニーストル川をせき止めてつくった潟湖になっていて、鉄道は、その細長い砂洲の上を走って行くのです。つまり、ビールホロドに向かう電車の進行方向の右側はドニーストル川の潟湖(Днiстровський Лиман)、左側は黒海というわけです。

最初、電車はすいていて、私の座っていたボックス席には私以外いなかったのですが、途中から混み始め、私のボックスに男性の二人連れが座りました。彼らは、ともに迷彩服の上下を着ていて、作業靴のような皮のブーツを履いていました。一見してガードマン風です。一人は疲れているのか、酒によっているのか、程なく眠り始めました。もう一人のほうは、相棒が眠り込んでしまって退屈し始めたのか、車窓の景色を見ながら、ときどき広げた地図で現在地を確認している私に興味津々の様子でした。彼は私と同じ年齢くらいの中年ですが、がっしりした体格の持ち主で、顔は日に焼けて赤茶色をしていて粗暴な感じで、正直言って、こちらは少し警戒していました。

その彼が、ついに話しかけてきました。どこから来たのか、どこへ行くのか、中国人か、といった例の話題です。私がロシア語で受け答えをしたので、彼は、ずっとロシア語で話しかけてきました。ほとんどなまりはありません。私は、日本から来たこと、これから終点のビールホロドまで行こうと思っていること、歴史に関心があるので史跡を訪ねようと思っていること(政治にも関心があるのですが、あまりそちらのほうに話題を持っていきたくないので、とりあえず歴史ということに)などを彼に聞かれるままに話しました。すると彼は、「こんなところで日本人の一人旅とは珍しい。自分は日本人と話をするのは初めてだ」と、少し興奮気味で、日本のこと、とくに勤労者の給料や物価などについて、あるいは自動車や電気製品などについて、あれこれ聞いてきます。私は、話をしているうちに、相手がそれなりに教養があることがわかって少し安心し、彼の質問に答えるかたちで日本のことについていろいろ話をしました。

そのうち彼の相棒らしき人物が目覚めて、彼は、相棒に、「この人は日本から来たそうだが、日本ではこんな風な感じなんだって、驚いたねぇ」といったようなことを相棒に話していました。それで相棒も話に入ってきましたが、程なく相棒はビールホロドの少し手前の駅で下車しました。

くだんの彼は、ビールホロドに近くなったところで、「自分は、ベールゴロド(とロシア語風に言っています)からもっと西の方に行ったところにある自宅に帰るところだが、歴史に興味があるなら、ぜひイズマイール(Ізмаїл)に行くべきだ。イズマイールには、そこの大学の史学科に通っている21歳の娘がいて、自分もイズマイールはよく知っているが、立派な寺院や、歴史のある城跡などがあり、美しい町だ」とさかんに私に勧めます。そのうち、自分の家へ来いとも、言い始めました。どうやら、彼は、私がビールホロドにしばらく滞在するものと勘違いしたようです。私の言葉が足らなかったのかもしれません。そこで、私は、「オデッサのホテルに泊まっていて、夜までにはオデッサに帰らなければならないから、残念だけれど今回はあまり遠くまでは行けない。イズマイールには、次の機会にぜひ行くことにする」と話をすると、彼はとても残念がって、それなら昼飯をご馳走するから付き合え、と言います。

電車は、11:00にビールホロドに到着しました。駅を降りると予想以上に小さな駅で、駅前にはほとんど何もないような田舎町でした。くだんの彼は、私を先導して駅前の小さなカフェに入り、「ビール飲むだろ? ウオッカもいけるだろ?」と、ビール、ウオッカ、ブッテルブロード(бутерброд パンの上にサラミなどをのせたオープンサンド)、サラダを注文して、上機嫌です。私は、どうせお昼は食べなければならないので、食事をご馳走してくれるのはありがたいのだけれど、日帰りしなければならないので、ここに腰を落ち着けられて長い時間をとられるのはいやだなと思ったりしたのですが、案に相違して、彼は30分ほどでさっと切り上げ、トイレに行けと私をせかし、店を出ると、「じゃ、さよなら。よい旅を。元気でね」と私に言い残して、駅前に停車していて今まさに動き始めたばかりのマルシュルートカ(ミニバス)に飛び乗りました。私はあわててマルシュルートカに乗った彼に向かって「ありがとう! さようなら」と叫びましたが、聞こえたかどうか、マルシュルートカは、猛烈な土ぼこりをあげて走り去っていきました。
| in Odessa | 19:50 | comments(0) | - |
オデッサの子どもたち
街角で子どもたちを見かけますが、女の子たちの服装が大人っぽいのに驚かされます。写真の子たちは、せいぜい10歳くらいですが、ヒールのある靴を履いていたりして、びっくりします。これは、市議会ビル前の公園のベンチの写真です。時間的に学校帰りのようです。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

ロシアやウクライナの子どもたちは、日本に比べて成長が早く、大人っぽく見えます。逆に、ロシアやウクライナからすると、日本の大学生などは、子どもに見えるらしく、ロシア語学科の学生と一緒にモスクワのトレチャコフ美術館に行ったとき、まとめて私が切符を買おうとしたら、窓口の人に、「子どもたちの引率なの? 大変ね」などと話しかけられ、私が、「ロシア語を勉強している大学生だから、彼らもロシア語ができますよ」などと言ったら、ものすごくびっくりされました。日本人の大学生、とくに1年生から就活前の3年生くらいまでは、人によっては12歳くらい、たいていはせいぜい15歳くらいにしか見えないそうです。

写真をクリックすると大きな写真を見ることができますそんなウクライナの子どもたちが、緊張した面持ちで、「無名水兵の碑」の前でセレモニーをやっているところに通りかかりました。4月24日(火)のことです。やっている本人たちにはとうてい話しかけられませんが、式典をやっている生徒さんたちのなかに仲間がいるらしく、見物しながら声援を送っていた生徒さんに年齢を聞いてみたら12歳と言っていました。確かによく見ると、幼い顔立ちの子もいますね。しかし、背が高く、ずいぶん大人っぽい子もいます。

最初、彼らがそろいの制服を着ているように思ったのですが、よく見ると、おそろいなのは、上着のセーラー服、金モール、タスキだけで、パンツ、スカート、ソックス、靴などは、まちまちです。帽子はちょっと見にはみな同じように見えますが、よく見ると微妙にそろっていません。ベルトはバックルはみな星のマークのついた同じものなのですが、ベルト部分は白と黒があります。ちなみに銃は模造のようです。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

写真に撮って詳細に見るといろいろなことがわかるもので、タスキには第57学校(Школа N57)と書いてあります。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

写真をクリックすると大きな写真を見ることができますこちらは「戦勝記念碑」のところに立っていた二人ですが、なぜかタスキをつけていません。
| in Odessa | 17:10 | comments(0) | - |
オデッサ
シンフェローポリからオデッサまで寝台列車の旅。シンフェローポリを4月21日(土)17:51に出発し、オデッサに4月22日(日)5:26の到着。寝台列車で乗り合わせたのは40歳くらいの男性。キエフからシンフェローポリまで乗り合わせた人と同様にビジネスマンでした。ウクライナでは長距離列車の切符の値段は決して安くないので、寝台列車を利用する客の多くは商用のようです。

ところで、ビジネスマンと言っても、ウクライナやロシアでは、普通に街を歩いたり地下鉄やバスに乗ったりしていても白ワイシャツを来ている人にはめったに会いません。白ワイシャツって、この国ではエリートの象徴のような気がします。普通のビジネスマンは、けっこう黒や濃紺などの濃い色のワイシャツを着ていますね。シンフェローポリから乗り合わせた彼もそうでした。コンパートメントの中で、コンセントから電源を引いてノートパソコンを使って仕事をしたり、携帯をよくかけていました。そうかと思うと、同じ車両の別のコンパートメントに知り合いがいるらしく、そのコンパートメントで何やら打ち合わせをしたりしている様子。

食事のときに少し話をしました。長距離列車や寝台車での食事は、食堂車(レストラン)が連結されていれば、そこで食事をするということもできますが、多くの人は、乗車前にパンやらソーセージなどあれこれ買い込んで、コンパートメントの中で食事をする人が多いですね。食堂車が味のわりに値段が高めということもありますし、食堂車が離れている場合には、移動が面倒ということもあります。

ですから、私も、いつもパンやソーセージを持ち込んで、車掌さんに紅茶を頼んで、コンパートメントの中で食事をしていました。ちなみに、各車両に必ず給湯器がついているので、車掌さんに頼むと、1フリヴニャ(25円)くらいでティーバッグの紅茶をつくって持ってきてくれます。もちろん、持ち込みのティーバッグやインスタントコーヒー、あるいはカップヌードルのようなものを用意していて、これに自分でお湯を注いで作っている人もいます。

で、彼が、ノートパソコンをパタンと閉じて、ビニル袋からパンやら何やら取り出して食事を始める風だったので、私も、一緒に食事を始めました。コンパートメントのドアを開けたままにしているので、車掌さんが通りかかって、食事を始める様子だとわかったと見え、「紅茶いりますか?」と聞くので、私は自分でティーバッグとカップも持っているのですが、せっかくですから、「お願いします」と言いました。彼は、「ビールある?」と聞き、あるというので、それを注文していました。ミネラルウォーターやビールなども車掌さんのところに冷蔵庫があって、置いていることが多いようです。

彼は、サラミソーセージをナイフで切って、パンの上にたくさん乗せて食べていました。実は私もやわらかいサラミを買っていたので、それをナイフで切って食べたのですが、彼ほど沢山は食べません。サラミは日本では結構高いので、その癖が抜けないのです。日本のサラミは硬くて油っぽく味が濃いというか塩辛いものが多く、いかにもお酒のおつまみ風のものが多いですが、こちらでは種類も多く、正確になんと言うかよく知りませんが、いわゆるサラミソーセージのようなものにも、あまり油っぽくなく、やわらかいものなどもあり、本当に肉の加工品は種類が豊富です。本場なので当然ですが、とても美味しくて、しかも値段が安いのです。

オデッサ駅に到着したとき、ホームはまだ少し薄暗い感じでした。とりあえず、駅の手荷物預かり所に荷物を預けたあと、時刻表のチェックです。というのも、シンフェローポリで電車に乗って、バフチサラーイやイェフパトーリアなどに行って味をしめたというか、ローカル電車の旅の面白さに目覚めたので、オデッサから電車の日帰り旅行はどこまで行けるのか調べてみようと思ったのです。できれば、1940年にソ連に併合され、それ以前はルーマニアだったベッサラビア地方に行ってみたいと思っていたからです。オデッサまでの寝台車のなかで、オデッサ州の地図を見ながらあれこれ考えていたのですが、実際に電車でどのあたりまで何時間くらいで行って帰ってこれるのかを駅の時刻表で調べるのです。下の写真はオデッサのホームの写真です(オデッサに到着したときの写真ではなく、翌4月23日(月)にビールホロド・ドニストローフシキー(Бiлгород-днiстровський ロシア語ではベールゴロド・ドニェストローフスキーБелгород-днестровский)に向かうときに写したものです)。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

時刻表を見る限り、電車で、西のはずれのルーマニアとの国境付近、例えばドナウ川に面した街イズマイール(Ізмаїл ロシア語ではИзмаил)まで日帰りで行くのは難しいことがわかりました。しかし、モルドヴァ領内を流れて、黒海に注ぐドニーストル川を越えたところにある、ビールホロド・ドニストローフシキーまでは2時間半で行けることがわかりました。電車の本数もそこそこあります。とにかくドニーストル川を超えて南ベッサラビアと呼ばれてきた地方には行けることがわかったのです。また、ビールホロドには、ドニーストル川に面した場所に中世の城跡もあるようです。

そうこうしているうちに外はすっかり明るくなり、駅の周辺も、人が多くなって賑やかになってきました。どうやら駅のすぐ隣に大きなバスターミナルや市電のターミナルがあり、市場もあるようです。駅の近くのカフェーで朝食を済ませ、ホテルの場所を確認しがてら、市内の散策をします。下の写真は、駅の正面外観(これも、到着時に写したものではなく、ビールホロドに向かうときに写した写真です)。客待ちのタクシーが並んでいます。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

寝台車のなかでオデッサの市街図を見て初めて気がついたことなのですが、オデッサの街は、黒海の入り江になっている部分の南西部にあり、港に近いオデッサの中心街から見るとその北側に海があるのです。ウクライナの南に黒海があるので、なんとなくオデッサの市街の南に海があるように思っていたのですが、実際にはそうではないのです。そして、鉄道の駅は、オデッサの中心街の2キロほど南、つまり海から離れたところにあり、駅から海に向かって北上していくと中心街、さらに港になるという配置になっています。

そこで、駅からまっすぐ北に向かって歩きます。市電は、まっすぐ北に向かうのではなく、いったん東か西に向かい、市の中心部をさけて郊外に延びていますので、駅と市の中心部との移動は、バスに依存せざるをえないようです。オデッサは立派な建物が多く、古くから商業都市、貿易港として栄えた、大きくて立派な都市であるということがよくわかりました。ただ、中心部のオペラ・バレエ劇場(下の写真)など、いくつかの歴史的建造物が修理中で、中に入れないということも含めて、町全体がやや老朽化しているので、再建、修復、再開発などが徐々に行われつつある状況だということもわかりました。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

下の写真は、オペラ・バレエ劇場のすぐ隣にある旧ラファロヴィッチ・アンド・カンパニー・ビル(Дом Рафаловича)。ラファロヴィッチは、19世紀末にオデッサで活躍した銀行家・企業家だったそうです。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

エイゼンシュテイン監督作品『戦艦ポチョムキン』に登場したことで有名になった大階段。これも、行って初めてわかったことですが、オデッサの中心街は、海に面した台地上にあり、港は台地のすぐ下にあります。この階段は、その港に下がる階段で、この階段を下りて道路を渡ると、そこはすぐに波止場になっています。この写真は、その波止場を背にして写したわけです。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

港の見える見晴らしよいところにあるヴォロンツォーフ宮殿。このヴォロンツォーフ宮殿のもとの持ち主は、ヤルタのところで紹介した、ヤルタ会談のときにチャーチルの宿泊所となったアラブ風の奇妙な外観の、あのヴォロンツォーフ宮殿と同じヴォロンツォーフです。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます

オデッサ市議会の建物。ロシア革命前は、証券取引所だったそうです。ヴォロンツォーフ宮殿と同様やはりよく海の見える場所にあり、ヴォロンツォーフ宮殿と、この市議会ビルとのあいだにある、海に面した細長い公園が、市民の憩いの場になっているようです。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます
| in Odessa | 14:46 | comments(0) | - |
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