RUSSIAN POLITICS / UENO'S SEMINAR
Home Profile Lecture Books BBS Diary Gallery Link Site Map
Diary  コメントは気軽に。

このブログの管理人(上野俊彦)の見解は管理人個人のものであり、管理人の所属する上智大学を代表するものではありません。
広告は管理人および管理人の所属する上智大学とは無関係です。掲載されている写真はとくに断りがない限り管理人が撮影したものです。

CALENDAR
S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< December 2017 >>
ARCHIVES
● 〜 January 22, 2006

CATEGORIES
MOBILE
qrcode
中国旅行(その20・最終章・再び北京へ)
7月26日(木)、長春7:13発の北京行き列車に乗車しました。列車は、なんと中国の新幹線CRHでした。列車には「和諧号」という愛称もついています。下の写真は、5月18日のYahoo Newsからお借りしたものです。

この列車はとても快適でしたが、私が中国の鉄道に乗って驚いたのは、列車の技術的なことではなく、鉄道員の士気の高さと勤勉さでした。駅舎や線路の周辺はきれいに整えられていてゴミや廃材などもなく清潔です。通過列車が通過していくとき、駅員たちは直立不動の姿勢で通過列車を見送っています。車内清掃も乗務員によって列車の運行中に頻繁に行われ、乗務員は通路を通るたびに落ちているゴミを拾い、棚からはみ出して落ちそうになっている荷物を直したりしています。

北京には13:29に着きました。ORさんとホームで待ち合わせする手はずだったのに、私が勝手にホームから移動してしまったために行き違いになってしまい、ORさんは心配して私を探し回ったのでしょう、私はORさんを少し怒らせてしまいました。

10日ぶりの北京、そしてORさんとは20日に分かれたのですから、わずか6日ぶりの再会に過ぎないのに、なぜか懐かしさでいっぱいです。

北京に着くとすぐ、キャリングケースを持ったまま、市内観光をしました。天安門、北京の銀座こと王府井を歩いたほか、北京市人民政府と中国外交部(外務省)を見に行きました。北京人民政府にはダメもとで中に入れるかどうかORさんに聞いてもらいましたが、やはりダメでした。でも、パブリック・サービスの点から考えると、北京市政府は、少しクローズド過ぎるのではないでしょうか。

北京市人民政府正門。

中国外交部。

市内観光を済ませたあと、ホテルにチェックインして、夕食は、最後の本場の中華料理。野菜をたくさんいただきました。帰りがけに、ORさんの通っていた保育園を見に行きました。

翌7月27日(金)、北京13:30発の中国国際航空 Air China CA167便に乗って帰国です。空港までORさんが見送りに来て下さいました。ORさんには、何から何まで本当にお世話になりました。

帰国して何日かたってから、新聞を読んでいたら、「中国を対等な目で見る心積もりが日本人には必要」との意見が載っているのが、たまたま目に留まりました。私には、中国が日本と対等の国とは到底思えません。中国と日本が対等の国だと思うこと自体、日本の思い上がりではないでしょうか。「ロシアの大国主義」を非難する論調を見たときにも私は同じ感慨にとらわれます。もちろん横暴は非難されるべきですが、ロシアが大国であること自体は認めなければなりません。まして、中国は、どう考えても超大国です。

この大きな国が、どのように変わっていくのか、私は本当に楽しみです。ORさんのお父さまが言っておられたことを思い出します。「人権とか、いろいろ問題はあるけれど、これだけ大きな国は、食べていくだけでも大変です。この国も少しずつよくなっていくと思います」。

世界の国々に単一のものさしを当てはめて、「この国はまだ民主化されていない」などと言って、優劣をつけることは間違っています。ロシアにはロシアの、中国には中国の、それぞれの固有の文化や歴史があります。そして、それぞれのやり方で変わって行っています。その変化がどのようなものなのか、今どうなっているのか、その真実の姿を知ることこそが大切なことだと思います。
| in China | 02:59 | comments(0) | - |
中国旅行(その19・長春の中の旧満州国・偽満皇宮博物院)
7月25日(水)の午前中、かんかん照りの暑さの中を、旧満州国の国家機関を探して新民大街を南下し、南湖公園まで歩いてくるとさすがに疲れましたが、まだ半日あります。午後は、清国の最後の皇帝にして、満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀が正式の皇居(結局、未完成のまま、現在は地質宮となっている建物)が完成するまでの仮の皇居としていた宮殿跡、偽満皇宮博物院に行くことにしました。南湖公園からはけっこう遠く、バスの便も悪いので、タクシーに乗ることにしました。タクシーの運転手さんに地図を示して、偽満皇宮博物院を指で差し示すと、タクシーの運転手さんはうなずいて、車を走らせました。中国のタクシーは料金をメーターどおりに支払えばよいので安心です。

複数の建物がありましたが、どの建物も仮りの皇居とはいえ、皇居としては思いのほか小さく狭く質素だという印象を受けました。


建物の内部には、皇帝の執務室や寝室、皇妃の居室や寝室、あるいは侍従たちの執務室、あるいは会議室や謁見のためのホールなどがあり、日本語の説明もありました。また溥儀や皇妃たちの写真も数多く展示されていました。
左の写真は、映画『ラストエンペラー』のロケーションが行われたホールだそうですが、思いのほか狭い部屋でした。これでは、ダンスパーティーなどは開けないのではないでしょうか。

この偽満皇宮博物院には、中国東北地方に対する日本の支配の歴史を展示した、非常に大きくて立派な博物館があります。日本軍による大量殺戮や細菌兵器の開発のために行われた生体実験などを厳しく糾弾し、日本の植民地支配を強く非難する内容の展示です。展示には日本語の説明もつけられていましたが、ここを訪れる日本人は少ないのではないかと思いますし、また訪れたとしても、多くの日本人は展示を直視することができず、足早に立ち去ってしまうかもしれません。ここに展示されていることは、歴史的事実であり(多少の間違いはあるかもしれません)、隠すことも、忘れてしまうこともできません。

展示の最後に、「この展示は、いたずらに日本を非難することが目的ではなく、国民がばらばらで国力が弱いと、このようなひどい目にあうことになるという歴史的教訓を中国国民に示すことが目的である」というようなことが書いてありました。

私は、ここに展示されていることが遠い過去のことになり、中国国民と日本国民が、互いに尊敬しあい、いつまでも仲良くしていけるようになってほしいと思いました。
| in China | 02:09 | comments(0) | - |
中国旅行(その18・長春の中の旧満州国)
7月24日(火)、私は、哈爾濱13:38発の列車で長春(长春 Chang chun)に向かいました。列車は中国東北地方の田園の中を3時間ほど走り、16:28に長春駅に到着しました。長春は、かつて第二次世界大戦前は、新京と呼ばれ、満州国の首都が置かれていたところです。ロシアとはあまり関係がありませんが、せっかくの機会なので、この街に少しだけ滞在することにしました。26日の早朝には北京に向けて出発しなければならないので、長春の町を見ることができるのは正味1日しかありません。

そんなわけで、長春で過ごす時間が少ないので、夕方になっていましたが、ホテル(南満州鉄道経営の新京・大和旅館、現在は春誼賓館)にチェックインしたあと、すぐに街に出ました。ホテルから歩いて行ける距離に、旧関東軍司令部、現在は中国共産党吉林省委員会として使われている建物があるので、それを見に行きました。下の写真がそれです。中国というこの土地になんと不似合いな建物なんでしょう。日本のお城のような建物ですが、やはりこの土地には強い違和感があります。旧満州国(中国では「偽満州国」と言っています)は日本政府の傀儡であったわけですが、その日本政府の出先機関として事実上、満州国を支配していた関東軍の司令部は、まさに日本帝国主義の象徴であったわけですが、やはりそれはこの国土にまったく似つかわしくない醜い建物をこの地に残したのです。

下の写真は、旧関東軍司令部の建物を真横から写したものですが、近くで見てもまるで日本のお城のような建物です。

7月25日(水)の朝、まずはバスで文化広場に向かいました。文化広場は、かつて満州国の正式な皇居として造られた宮殿、現在は吉林大学地質学部の建物(通称「地質宮」、下の写真)の前に広がる広場です。宮殿は、結局、第二次世界大戦終了までに完成が間に合わなかったそうですが、巨大な建物です。その前の文化広場も途方もなく大きく、一部はサッカー場やテニスコートになっていましたが、それでもまだ十分に広く、満州国の首都建設計画が極めて壮大な計画だったことを推測させるに十分です。今は、無駄に広いこの広場で市民がタコ揚げをしていました。

皇居の周辺や南側には、満州国の軍事および政治の中枢機関であった建物がそのまま残されています。

下の写真は、文化広場のすぐ南西にある旧満州国軍事部の建物です。やはりお城のような異様な建物です。

文化広場の南東、つまり旧満州国軍事部と向き合っている建物は、旧満州国の国会にあたる旧満州国国務院、現在は吉林大学基礎医学院の建物です(下の写真)。

旧国務院の建物は、遠目に日本の国会議事堂に似ている感じですが、近くに寄って見ると、やはり奇妙な建物です。たとえば下の写真は、文化広場側の現在は使われていない門ですが、武家屋敷の屋根が乗ったような門柱は、何か異様な感じを受けます。

旧国務院の現在の正面は、下の写真です。

中に入って建物の入り口に近寄ってみると、この建物が、日本の傀儡国家であった旧満州国の国務院であったことを示す看板があります。

旧満州国の皇居、すなわち地質宮からまっすぐ南に伸びる新民大街を南に歩いていくと、その両側にも旧満州国の政府機関の建物があります。下の写真は、新民大街の東側にある旧満州国司法部、現在の吉林大学新民校区の建物です。

新民大街を挟んで旧満州国司法部の向かい側には、旧満州国経済部、現在の吉林大学第三医院の建物があります(下の写真)。

旧満州国経済部の建物のさらに南に旧満州国交通部、現在の吉林大学新民校区の建物があります(下の写真)。

新民大街が南湖公園にぶつかったところにある新民広場に面して旧満州国総合法衙、現在の人民解放軍第461医院の建物があります。

以上、見てきた建物は、いずれも、計画都市、旧満州国の首都・新京に、日本によって建てられたものです。それらの建物のいびつで異様な姿は、あたかも、この地で行われた日本の植民地支配の異様さ、醜さを示しているようです。私は、これらの和洋折衷の建物にどうしても建築美を感じることができませんでした。都市計画それ自体は立派で、道路は広く、並木も美しいし、公園も広くてすばらしいと思いました。しかし、そこに建てられた旧満州国の国家機関の建物は、残念ながらどれひとつとして美しいとは感じませんでした。
| in China | 16:31 | comments(6) | - |
中国旅行(その17・哈爾濱の市民の暮らし)
哈爾濱市民の暮らしが、中国の他の都市の市民の暮らしととくに違いがあるわけではないでしょう。哈爾濱は、確かにロシアが統治していた時代の建物がたくさん残っているという点で中国の他の都市とは大いに違いますが、市民の暮らしには違いがあるわけではないと思います。私は、とくに中国人の暮らしに強い関心があるわけではないので、暮らしぶりがよくわかるような写真を意識して撮ってはいませんが、それでも面白い写真がいくつかありましたので、ここで紹介してみましょう。

下の写真は、街で見かけた学校帰りの子どもたちです。そろいのジャージやポロシャツが制服のようです。学校帰りの子どもたちの様子は万国共通ですね。

下の写真は壁新聞を読む人たちです。文化大革命のときに中国の紅衛兵たちが壁新聞で「造反有理」のスローガンを広めたことはよく知られていますが、いまだに壁新聞健在です。しかし、いずれの新聞も活字印刷のちゃんとした新聞です。

中国人は健康志向が強く、北京や大連の公園などでお年寄りが柔軟体操などをしているのをよく見かけましたが、哈爾濱には、公園の一部分にその名も「全民健身苑」というコーナーがあって、アスレティック・クラブやトレーニングセンターにあるような健康遊具のようなものを無料で利用できるようになっています。日本の公園にも、ブランコや滑り台などばかりでなく、こんな健康遊具があったらいいですね。

中国のお年寄りには、「孤独な老人」などは決していないのではないかとさえ思えるのは、公園や路地裏でお年寄りたち(お年寄りといえない人たちもいますが)が集まって、下の写真のように謡曲をやったり、集団で体操をやったり、あるいは麻雀や将棋を楽しんでいる人たちが多かったからです。

公園の花壇やロータリーの植え込みも、中国っぽいという感じがあって、植え込みに独特の造形がなされています。
| in China | 15:54 | comments(0) | - |
中国旅行(その16・哈爾濱の中のロシア)
7月22日(日)から24日(火)の午前中まで、私は路線バスに乗って哈爾濱の街をあちこち移動し、バスを降りてからは、大通りから裏通りまであちこち歩き回り、哈爾濱の中のロシアを探し回りました。

中央大街は、現在、ロシア語では、そのまま中央通り(Центральная улица)と言っていますが、第二次世界大戦前は、実は、中国大街(Китайская улица)と呼ばれていました。これらのことは、日本の哈爾濱都市計画研究の第一人者の越澤明さんの著書、『哈爾浜(はるぴん)の都市計画』(ちくま学芸文庫、2004年)の中で詳しく説明されています(とくに、そのIV章)。中央大街は、当時も現在も、目抜き通りだったわけです。

しかし、現在の中央大街は、目抜き通りなのですから当然といえば当然ですが、きれいに修復され過ぎているという感じです。しかし、ほとんどすべてが当時のロシア風の建物ですから、哈爾濱で手っ取り早く、戦前からのロシア風の建物を見るなら、中央大街に来るのが一番でしょう。しかし、私は、言ってみれば、そんな展示用の見てくれを意識した建物ではなく、そのまま無意識に使われていて、しかもそれが実は当時の建物だったというようなものを探してみました。

まずは、典型的なロシア風アールヌーボー様式の建物。この建物は、哈爾濱駅南口の目抜き通り紅軍街をまっすぐ行ったところにある紅博広場に面した建物で、1階部分は商店になっていますが、2階部分は黒龍江省博物館になっています。この建物は、『哈爾浜(はるぴん)の都市計画』によれば、かつては勧商場だったそうですし、また紅博広場には、文化大革命までは中央寺院が立っていたそうです。

この建物は普通のオフィスビルのようなつくりで、外見からは古くなさそうですが、一部の窓が典型的なアールヌーボー様式になっていますので、古い建物を相当改修して今日に至っているのかなと想像させます。

並木に隠れてい全体像がはっきりしませんが、よくみれば、紛れもなく哈爾濱建設初期の時代の建物です。今でもモスクワやペテルブルクでよく見る偽古典様式(ギリシア風の柱が特徴です)の建物です。

この建物の色合いはオリジナルとは相当違っているように思いますが、かたちは哈爾濱建設当時からあまり変わっていないのではないでしょうか。

この建物と、写真では一部しか見えませんが向かって右側の建物は、哈爾濱建設当時の面影をよく残しているように思います。

これから下の写真の建物は、いずれも、第二次世界大戦前までは傅家甸と呼ばれた中国人街、現在の靖宇街と南七道街に囲まれた付近にあります。この付近は、かなり古い建物が多く、下町っぽいところです。実際、生活臭がぷんぷんするようなところで、観光客が訪れるようなところではまったくありません。もし普通の日本人観光客が迷い込んだら、なんと不潔でひどいところだろうと思うでしょう。しかし、私が小学生だった1964年の東京オリンピック以前の東京には、このようなところはたくさんありました。ただ、当時の日本と違うところは、いまの中国では、こんな街の道路にも、最新型の日本車やドイツ車が停まっていたりすることです。文字通り最新型の乗用車と馬の引く荷車が共存している、そんなダイナミックに発展する中国を象徴する街でもあります。さて、下の写真は側面の部分が見えるので、当時の建物がレンガ造りであることがよくわかります。レンガはかなり几帳面に積まれており、当時の職人さんたちの精巧な技術がしのばれます。

この付近は、かつて中国人街だったことからわかるように、当時の中国人商人たちが、ロシア人たちが建てた建物を真似て建物を造ったとも言われていて、それだけに中国人好みの過剰装飾が見られると言われています。この建物のファサード(表面装飾)などは確かにやや過剰装飾気味です。

この建物のあった通りなども、かなり生活臭が漂うようなところで、こういった古いアパートがたくさんあります。住んでいる人たちは、この建物の由来など想像だにしていないかもしれません。

それでも、この建物などは1階部分を商店として使っているので、外壁は比較的きれいに塗りなおされています。

この写真の奥の建物などは、建設当時は、ファサードなどにも凝って、かなり美しい建物だったと思いますが、時間とともに薄汚れ、いまは、かつて美しい建物だったと考える人はほとんどいないかもしれません。きれいにペンキを塗りなおしたら見違えるほど美しい建物になるように思います。この建物なども美しいファサードを持った、小さいけれども立派な建物だったに違いありません。その奥にも立派な建物があったのでしょうが、今は取り壊されてなくなってしまっています。この写真の建物もいずれは壊されてしまうのでしょうか。

日本のように地震もなく、せっかく今日まで生き残ってきたこれらの建物の価値に市民が気付いて、中央大街のように修復しながらぜひ使い続けて欲しいと願わずにいられません。その意味で、哈爾濱はすばらしい観光資源を持った、立派な都市なのです。

哈爾濱の中のロシアにはあまり関係ありませんが、日本総領事官邸だった建物を発見したので、紹介します。プレートで、きちんと説明がなされています。
| in China | 13:44 | comments(0) | - |
中国旅行(その15・哈爾濱)
哈爾濱には7月21日から24日まで3泊しました。正直、哈爾濱が、こんなにもロシア風の街だったなんて想像していませんでした。もちろん、ある程度の予想はしていましたが、これほどたくさんロシア風の建物が残っているとは驚きました。少し大げさに言えば、まるでモスクワのようです。違いといえば、中国の政策で、ロシア正教会がほとんど壊されてしまったか、別の用途に使われているため、ロシア正教会がほとんどないということぐらいです。

哈爾濱のこの街並を見てしまうと、観光地化されている大連の旧ロシア人街は、安手のテーマパークでしかありません。しかし、たくさんいるのではないかと予想していたロシア人は、あまり見かけませんでした。北京のロシア人街では、現に北京に住んでいるたくさんのロシア人を見かけましたが、哈爾濱には、ロシア人はあまりいません。むしろ旅順などの観光地があって、商業都市としても賑やかな大連の方が、哈爾濱よりもロシア人をより多く見かけたように思います。

さて、私が予約した哈爾濱のホテルは、かつての満鉄経営の哈爾濱大和旅館、現在は、龍門大厦貴賓楼(龙门大厦貴宾楼)と呼ばれているホテルです。外観は、かつて哈爾濱で流行していたロシア風アールヌーボーです。

正面の階段を上ると、階段の両側の壁にはプーシキンとトルストイの肖像画(下の写真)が飾られているなど、やはりロシアっぽさを売り物にしているようです。

ホテルにチェックインして、シャワーを浴びて一休みしたあと、車内で知り合った例のロシア人の携帯に電話をすると、今日、つまり7月21日の12:00、聖堂広場(Соборная площадь)で待ち合わせをしようということになりました。彼がロシア語で言っている聖堂広場というのは、哈爾濱の観光名所になっている哈爾濱市建築芸術館前の広場のことだというのはすぐにわかりました。哈爾濱市建築芸術館は、かつてソフィア寺院と呼ばれていたロシア正教の教会の建物を利用した博物館で、現在、この旧ソフィア寺院は、哈爾濱のシンボルともなっています。

まだ哈爾濱の詳しい地図を持っていない私は、とりあえず『地球の歩き方』に載っている簡単な哈爾濱市街図を頼りに、哈爾濱市建築芸術館まで徒歩で行くことにしました。『地球の歩き方』の地図で見ると、30分ほども歩けば着けそうな距離です。また『地球の歩き方』によると、近くに中央大街という繁華街があり、どうやらそこに本屋さんがあるようなので、そこにまず寄って地図を入手してから待ち合わせ場所の広場に行こうと考えました。

しかし、午前10時頃というのに、気温は30度以上ありそうなかんかん照りの猛暑です。北京などに比べてかなり乾燥しているので日陰は幾分涼しいとはいえ、道路の照り返しもあって、決して街歩きに適した季節ではありません。しかし、まっすぐの一本道ならともかく、中央大街や哈爾濱市建築芸術館はホテルのある駅の南口とは反対の駅の北口の方面にあり、駅前のバス停の表示もあまり親切ではなく、どのバスに乗っていけばそちらのほうにいけるのか皆目見当もつきませんから、とりあえずは歩くしかありません。ホテルのフロントで英語が通じれば、ホテルのフロントで教えてもらえるのですが、残念ながら英語はほとんど通じません。タクシーに乗って、地図を指で示すという方法がありますが、中国はタクシーが安いとはいえ、そういう安直な方法をとるのは嫌いなので、とにかく街を知るためにも歩いてみることにしました。

予想通り、30分ほどで、中央大街の入り口に着き、本屋さんを探しながら、その通りを歩きました。通りは大変な賑わいです。観光客もいるようですが、みな中国人のようです。通りの両側は、きれいに修復されたロシア風の建物ばかりです。
聖堂広場に立つ旧ソフィア教会は、紛れもなくロシア正教の教会です。

この教会の前の広場で、私はロシア人父娘と待ち合わせをしました。落ち合ったあと、父親の案内で、この広場から程近い横丁の一角にあるアパートに行きました。ごく普通の、つまりあまりきれいとはいえない、地元市民の住むアパートです。そこに住んでいるのは、もう70歳近いロシア人と、その妻(中国人)です。家の中は、ロシア人の普通の住宅の感じで、居間の壁にはイコンやら、またじゅうたんなどがかけられています。たまたま近くに住むカザフ人や、ロシア語のできる中国人たちもやってきて、奥さんの作った手料理でビールやらウオッカやらを飲みながら宴会が始まりました。下の写真は宴会前の記念撮影。
| in China | 12:24 | comments(0) | - |
中国旅行(その14・哈爾濱まで)
大連21:54発、哈爾濱(ハルビン 哈尔滨 Haer bin)行きの寝台列車に乗り込みました。寝台車は個室(コンパートメント)寝台で、寝台は2段になっているので、1コンパートメントに4人が入ります。

私のコンパートメントには、ブラゴヴェシチェンスクのロシア人の父娘、ロシア語のできる若い中国人ビジネスマンが乗り込んできて、偶然、4人全員の共通語がロシア語になりました。ロシア人父娘の父親のほうがウオッカのような透明の強い中国酒を持っていて、それを娘さんを除く3人で飲みながらあれこれ話をしました。ロシア人の父親のほうは、なんと作家(劇作家)で、中国の民話などを題材にして子ども向けの戯曲を書いているそうです。それを劇場で上演するのだそうです。取材のために中国にはよく来ているようで、少し中国語もできるようです。娘さんは大学生かなとも思いましたが、聞いてみたら、やはり(ロシア人の女の子は一般に早熟なので「やはり」なのです)まだ14歳ということでした。中国人のビジネスマンは学校できちんとロシア語を勉強したのではないけれど、仕事でハバロフスクやヴラジヴォストークなどロシア極東に行くことがよくあるとかで、ロシア語ができるようになったとのこと。なんとサソリなどを売買しているとのことです。確かに北京の横丁でサソリの串焼きなどがあったような気がします。

ロシア人の父親のほうに私が哈爾濱でロシア関係の史跡を調べるという話をしたら、ハルビン在住の知り合いのロシア人を紹介するから、ハルビンに着いたら昼ごろまでに携帯に電話を入れてくれ、落ち合う場所と時間をそのときに決めようという話になりました。

そんな話をしながら、夜も更けて、全員、眠りにつきました。
| in China | 11:43 | comments(0) | - |
閑話休題:中国の食品って普通でしょ
旅行記からちょっと外れますが・・・

ここのところマスコミで中国の食品の安全性に問題あり!みたいな報道が多いですよね。私は、そもそもマスコミを全面的に信用するということをしないので(記者さんごめんなさい)、こんどは日本のマスコミがロシア・バッシングに飽きて、中国バッシングを始めたのかな、って思っています。

私は、中国にいたとき街頭でミネラルウォーターとか普通に買っていましたよ。それから屋台の串焼きも食べたし、ものすごく大衆的なお店(地下街とかにある)で韓国冷麺を食べまくってました。冷麺は火を通してない素材が多いし、そもそもスープは水道水?なんていう疑惑もあるけど、食べてました。

結果、元気です。おなかは壊しませんでした。

昔、学食のカウンターで順番待ちしていたとき、何気に調理場を見ていたら、調理のおばさんが、揚げ物をしていて、小アジの開きかなんかを床にぼとりと落としたのを、そのまま拾い上げてフライヤーの中に入れたのを見たことがあって、それ以来、その学食で揚げ物を食べるのをやめたっていうことがあったんですけど、まあ、そういうことって、どこの国でもありがちなのでしょうか。お祭りとか学園祭の屋台で食べるものなんて、衛生的にはどうなんでしょう。

食品については、たぶん衛生云々よりも食品添加物とか農薬とか、そういった有害物質の方が問題でしょうね。アトピーとか花粉症とかのアレルギー病が増えているのもそういったことが原因という説があるし・・・

外国のことをバッシングする前に、やはり自分たちの身の回りの問題を解決したり改善したりすべきだと思います。反核平和、ヒロシマ、ナガサキ、と言いつつ、核抑止戦略を基本とする米軍基地を国内に置いていることがダブルスタンダードではないのかとか、膨大な財政赤字はいったいどうするのかとか、考えなければならない問題は身近なところにたくさんあります。もっと自分の足元を見つめて欲しいなと思います。

確かにロシアにも中国にもいろいろ問題はあるでしょうが、それらは彼らの問題です。批判するのはかまわないのですが、私たちは私たちの問題を解決しないといけません。一時期、ロシアの言論の自由について、いろいろ日本のマスコミが批判していましたが、では、日本の報道は問題ないのでしょうか。外国メディアを排除し、お役所と馴れ合いになっている記者クラブ制度って、いいのでしょうか。近現代史における天皇の役割とか、あるいは「北方領土」問題などについて、日本では本当に言論の自由があると言えるのでしょうか。
| in China | 09:30 | comments(0) | - |
中国旅行(その13・大連の中の大日本帝国と満州国の続き)
7月20日(金)、とうとう大連最後の日になってしまいました。ORさんが10:00にホテルに迎えに来て下さいました。

大連の中の大日本帝国と満州国ということで、まずは旧南満州鉄道大連医院に行きました。現在は大連大学付属中山医院となっています。

裏玄関の横に説明プレートがありました。


裏玄関の側です。

次いで訪れたのが南満州鉄道本社ビルです。左右対称の建物です。

下の写真は左側の出っ張り部分です。

中央部分です。

南満州鉄道の社章がマンホールのふたに残されています。社章のデザインは、満州を示すMに線路の断面の形をあしらったものです。

大連大学付属中山医院から南満州鉄道本社ビルに行く途中で、うっそうと茂るアカシアの並木を見つけました。

南山地区の日本人街にもう一度行こうということになり、歩いているうちに、旧日本人街の近くにORさんのお宅があることがわかり、急遽、ORさんのお宅にお邪魔することになりました。素敵なマンションです。サッちゃんとヒロくんが家にいて、家の中を見せてもらったり、少しお話をしたりしたあと、4人で近くの韓国レストランにお昼を食べに行きました。昼食のあと、バスに乗って大連現代博物館に行くことになりました。

大連現代博物館は大連の歴史や産業などをコンパクトに展示してありました。もう少し詳しく大連の歴史が展示されてあるといいなと思いましたが、まだまだこれからなのでしょう。

大連現代博物館の帰りに人民広場に立ち寄りました。人民広場には、中国共産党遼寧省委員会があります。大連名物の女性の交通警官が交通整理をしていました。

この日はお母さまの誕生日ということで、花市場に行って花束を買いました。そのあとケーキ屋さんに行ってケーキを注文し、誕生パーティーをやることになっているレストランに行きました。お母さまは花束やケーキのプレゼントに大喜びでした。

20:30頃、私はレストランを出なければなりません。レストランの玄関で、お母さまと、サッちゃん、ヒロくんにお別れをしました。ヒロくんをぎゅっと抱き締めました。ORさんは、大連駅の列車まで見送りに来てくれました。

みんなありがとう。大連、さようなら。ナミダの大連です。
| in China | 00:09 | comments(0) | - |
中国旅行(その12・旅順)
7月19日(木)、9:00少し前にホテルに戻ると、もうORさんと妹さんのサッちゃん、弟さんのヒロくんが来ていました。ホテルからツアー会社の差し回しのミニバンに乗り込み、ほかのツアー客との合流地点に向かいます。私たちが参加するツアーは中国人向けのツアーで、外国人にはまだ全面開放されていないところも回るので、そういう場所では私が日本人だということがバレないように黙っていなければならないというものでした。

少し大きめのバスに乗り換えて、ほかの中国人の観光客たちと一緒に旅順に向かいます。ガイドさんはマイクを握って、ほとんどずっとしゃべりっぱなしです。水族館の前を通過したときに水族館のことを必要以上に詳しく説明しているのは、帰りにこの水族館に立ち寄るので、ツアー客が水族館に興味を持ち、入場するよう仕向けているのだとのORさんの説明です。ツアーはまず万忠墓に到着しました。ここは本来外国人、とくに日本人には開放されていないとのORさんの説明です。ところが、このあとツアーのガイドとORさんが議論を始めました。要するに、ガイドさんは、「日本人を乗せているといろいろ問題があるので、今後、このツアーの旅順市内の観光地では日本人はバスから降ろさない」と言っているようなのです。しかし、ORさんは、「それは、黙っていれば問題ないという最初の話とは違う。お金もすでに払ってしまっているのにいまさらそのようなことを言われても困る」と抗議しているのです。次の観光地である白玉山塔は確かに旅順軍港を真下に見る場所で、外国人に開放するのは都合がよくないと中国軍などが考えてもおかしくない場所のようです。もちろん私はバスから降りませんでした。しかし、このままこのツアーに参加し続けても意味がないし、203高地には行かないツアーだということもわかったので、白玉山のふもとにある旅順駅でツアーのバスを降りることにしました。

旅順駅舎。

ORさんはこのことをお母さまに電話で連絡したところ、お母さまが知人に頼んで車を回して下さることになりました。申し訳ないと思いつつ、中国語のできない私は、その好意に甘える以外に方法はありません。

旅順駅でしばらく待っていると、車がやってきて、それに乗って、203高地と水師営を見学に行きました。203高地には、ロシア人観光客も多く、私たちがいたときには、日本人の団体がいなかったので、ロシア人の方が多いというような状況でした。ロシア人にどこから来たのかと尋ねると、やはりシベリアや極東からの観光客がほとんどでした。アムール州のブラゴヴェシチェンスクから来たというロシア人の男性が、「昔、ここでロシアと日本が激しい戦争をやったんだ」と感慨深げに語るので、私がすかさず、「でも今は平和だよ。よかったね」と笑いながら言って手を差し出したので、彼も笑いながら「平和、平和」と言いながら手を握り返してきました。ヤクーツクから来たという家族連れにも会いました。顔が日本人とよく似ています。私が「僕らはお互い似ているね」と言ったら、「本当だ」と驚いた様子で言っていました。

下の写真は、203高地から旅順港を望んだものです。

203高地に日本軍が設置した砲台あと。先端に立っている女性はロシア人観光客です。

水師営は、入場料が高い割には、あまり見る価値がない場所でした。おそらく日本人の団体観光客しか立ち寄らないようです。下の写真は水師営会見所入り口。

水師営会見所の建物の入り口。中に日本語のできるガイドがいますが、高価な解説本を売ろうとしているようです。

ツアーのバスで旅順へ向かう途中、星海広場の近くで旧日本人住宅と思しきいくつかの住宅を見たので、帰りにそこで車を降りて歩いてみることにしました。確かに、ここにも日本人街があったようです。南山地区よりは市の中心部から離れていますが、それだけに幾分大きめの家が多いように思いました。たまたまそれらの家のうちの1軒から出てきた人にORさんから話を聞いてもらったところ、それらの家が、第二次世界大戦前は日本人が住んでいた家だったというようなことは知らない、とのことでした。
| in China | 20:19 | comments(0) | - |
| 1/3PAGES | >>

Copyright (c) UENO Toshihiko 2002-2014 All Rights Reserved.