2007.05.22 Tuesday
バフチサラーイのハーンの宮殿
ハーンの宮殿(Ханский дволец)は、バフチサラーイの駅から1番のマルシュルートカ(ミニバス)で15分ほど行ったところにあります。マルシュルートカは、あまり広くない道を、交差点を右に左に曲がりながら走って行きますが、駅からすると南方の山あいに向かっているはずです。着いてみると、意外にも、ハーンの宮殿は、難攻不落の山の上とか小高い丘の上とかではなく、また大きな川などに守られているわけでもなく、平地が狭まって、これから山がますます迫ってくる谷の入口のようなところにあります。周囲の山の上から丸見えといった感じの場所です。
戦争が絶えなかった時代、城や砦を造る場所は、ヨーロッパでも日本でも、あまり変わらず、守るに易く攻めるに難い見晴らしのよい小高い丘の上や、川に囲まれていたりする場所です。平野の真ん中にあるようなモスクワのクレムリンも、ヤウザ川がモスクワ川に流れ込む、つまり2面で川に接した、周囲から見ると少し小高い場所に築かれました。
それに対してハーンの宮殿は、むしろ窪地のようなところにあり、これといって守りが堅いような場所にあるようには見えません。ただ、周囲の山が急峻な崖を伴っているようなので、案外、これはこれで自然の要害に囲まれているということなのでしょうか。しかし、決して見晴らしのよいような場所ではありません。
ハーンの宮殿は、とてもエキゾチックで、私たちが中央アジアやトルコなどの風俗に対して持っているイメージそのものです。この建物は、宮殿であって、決してイスラム寺院ではありませんが、やはりイスラム文化が深く浸透しています。左の写真は宮殿の入口ですが、モスクワのトレチャコフ美術館にあるヴェレシシャーギン(Василий Васильевич Верещагин 1842-1904)の「チムールの扉」という絵を思い出させます。「チムールの扉」は扉自体に細かい彫刻がなされているのですが、こちらは扉の周り、とくに入口の上部の彫刻がすごいと思いました。
室内もまた、エキゾチックですが、大広間(下の写真)は一般のイスラム寺院の内部ほどではないにせよ、かなりシンプルです。
生活の匂いのぷんぷんするような居室(下の写真)は、文化習俗の展示を兼ねているようなので、置物の配置などが実際とは違うようにも思いましたが、窓の造りなどは日本の障子を思わせるようなものになっていて、なかなか面白いなぁと思いました。左の写真は、「涙の泉(Фонтан слез)」と呼ばれるものです。これは、1764年、愛妻を亡くしたハーンが、その深い悲しみを示すために、涙のようにひとしずくひとしずく流れ落ちる噴水として造らせたものだそうです。1820年9月、この宮殿を訪れた21歳のプーシキンが、この話を聞いて、それを詩に残しました。そのため、この「涙の泉」は広く世に知られるようになったそうです。泉の脇に立っているのは、そのプーシキンの像です。
左の写真は、ハーンの末裔の娘、ではなくて、中庭で写真屋さんがクリミア・タタール人の服を観光客に貸し出して写真に撮ってくれるのですが、そのシーンを横から写したものです。私も撮ってもらったらいかがですかと館長さんにも勧められましたが、たった一人の東洋人ということでただでさえ目立っているので、丁重にお断りしました。
戦争が絶えなかった時代、城や砦を造る場所は、ヨーロッパでも日本でも、あまり変わらず、守るに易く攻めるに難い見晴らしのよい小高い丘の上や、川に囲まれていたりする場所です。平野の真ん中にあるようなモスクワのクレムリンも、ヤウザ川がモスクワ川に流れ込む、つまり2面で川に接した、周囲から見ると少し小高い場所に築かれました。
それに対してハーンの宮殿は、むしろ窪地のようなところにあり、これといって守りが堅いような場所にあるようには見えません。ただ、周囲の山が急峻な崖を伴っているようなので、案外、これはこれで自然の要害に囲まれているということなのでしょうか。しかし、決して見晴らしのよいような場所ではありません。
ハーンの宮殿は、とてもエキゾチックで、私たちが中央アジアやトルコなどの風俗に対して持っているイメージそのものです。この建物は、宮殿であって、決してイスラム寺院ではありませんが、やはりイスラム文化が深く浸透しています。左の写真は宮殿の入口ですが、モスクワのトレチャコフ美術館にあるヴェレシシャーギン(Василий Васильевич Верещагин 1842-1904)の「チムールの扉」という絵を思い出させます。「チムールの扉」は扉自体に細かい彫刻がなされているのですが、こちらは扉の周り、とくに入口の上部の彫刻がすごいと思いました。
室内もまた、エキゾチックですが、大広間(下の写真)は一般のイスラム寺院の内部ほどではないにせよ、かなりシンプルです。
生活の匂いのぷんぷんするような居室(下の写真)は、文化習俗の展示を兼ねているようなので、置物の配置などが実際とは違うようにも思いましたが、窓の造りなどは日本の障子を思わせるようなものになっていて、なかなか面白いなぁと思いました。左の写真は、「涙の泉(Фонтан слез)」と呼ばれるものです。これは、1764年、愛妻を亡くしたハーンが、その深い悲しみを示すために、涙のようにひとしずくひとしずく流れ落ちる噴水として造らせたものだそうです。1820年9月、この宮殿を訪れた21歳のプーシキンが、この話を聞いて、それを詩に残しました。そのため、この「涙の泉」は広く世に知られるようになったそうです。泉の脇に立っているのは、そのプーシキンの像です。
左の写真は、ハーンの末裔の娘、ではなくて、中庭で写真屋さんがクリミア・タタール人の服を観光客に貸し出して写真に撮ってくれるのですが、そのシーンを横から写したものです。私も撮ってもらったらいかがですかと館長さんにも勧められましたが、たった一人の東洋人ということでただでさえ目立っているので、丁重にお断りしました。