RUSSIAN POLITICS / UENO'S SEMINAR
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1991年8月19日から20年

Twitterからの続きです。

ちょうど20年前の今日、8月19日(月)、ソ連でクーデタが起きた。あの日、午前中、借り上げたレンタカーで市内を走り回り、情報を集めた。

エリツィンは、当初の予定では、まだカザフスタンにいるはずだったが、虫の知らせか、大好きなテニスの予定を切り上げて、19日の未明までには郊外の別荘に戻っていた。エリツィンは、その日の早朝、国家非常事態委員会の声明を聞いて、駆けつけた補佐官のチェルニャエフとともに公用車を飛ばしてホワイトハウス(当時のロシア共和国政府ビル)に朝のうちに入っている。エリツィンの別荘と市内を結ぶ幹線道路を警備していたはずのKGBの特殊部隊のアルファ部隊はエリツィンを拘束し損ねている。アルファ部隊の封鎖前にエリツィンの車が市内に入ってしまったのか、アルファ部隊の隊長がすでに寝返ってエリツィンを見逃してやったのか(隊長本人はクーデタ収束後に勝ち馬に乗るためにそう言っているが信用できない)、定かではない。

エリツィンは、着々と築き挙げられていくホワイトハウス周辺のバリケードと、それを囲む空挺部隊の装甲車(このとき、こちらもすでに寝返っていたという話だが、それも定かではない)が停車しているなか、装甲車の上で「徹底抗戦」の演説をしている。

私はそれをじかには見ていないが、19日の昼すぎの情報集約のときにそのことを知って、クーデタの焦点はホワイトハウスにあるということを確信し、そこのバリケードのところで情報収集をすることに決めた。

しかし、防弾チョッキもヘルメットもない。ここが襲撃されたらどうするか。私は、ホワイトハウスにほど近いところにある米国大使館に上司から連絡してもらい、いざというときには米国大使館に逃げ込む手はずにしていた。そこで、ホワイトハウスに向かう前に米国大使館の門のところに行き、警護をしている海兵隊員(?)に面通しをし、いざというときは逃げ込むから入れてくれと頼んでおいた。

しかし、ここまで逃げられるのかどうか、逃げられても、入れてくれるかどうか、不安はあったが、そんなこと言ってる場合ではない。陸上競技部の選手だったのは、もう10数年も前の話だ。

あとは近くにある国際ホテルのビジネス棟に入ってる日本の商社(丸紅だったか)にも休息に使わせてもらうことをお願いした。

バリケードはみるみるうちに造られ、何重にもなっていく。しかし、悲しいかな手作りで、重機で破壊することはできそうだ。そのうち、トロリーバスをバリケードがわりに道路に横置きしたりしていたが、これもやはり重機にはかなうまい。

それにしても、気になるのは空挺の装甲車だ。最初、砲は内側、つまりホワイトハウス側を向いていた。ところが、突然、エンジンのうなりを上げて、向きを変え、砲を外側に向けた。このとき、おそらく全部隊が寝返ったのだろう。

大使館に連絡を取りたいが、当時は携帯がない時代だ。公衆電話は「おれさぁ、今夜、ボリス・ニコラエヴィチ(エリツィンのこと)を守るために友だちと一緒にホワイトハウスのバリケードで一夜を明かすから、家には帰らないよ。てか、おまえもこっちに来るか?」みたいな話をするために若者が行列していて、すぐに電話をかけられる状態にはない。

ついにつながった電話で、私は、私よりもずっと年次の上の管理班長を、「ですからぁ、国家が転覆するかどうかっていうときなんですよ。つべこべ言わずに、公使車の車載電話を車ごとこっちに回して下さいよ」とイラついた声で責め立てていた。

役所の判断には時間がかかる。公使車が来るにしてもすぐには来ない。趣味でハンディートーキー(携帯無線)をやっている館員または日本人会社員がいないかどうか調べてもらい、いたら借りるよう手配した。幸い館員にそういう趣味の人がいてハンディトーキーが程なく届いた。しかし、電波が弱く、大使館からカリーニン通り(当時。現在の新アルバート通り)に出てきてもらい、遮るビルなどがない状態でないと話が通らない。

とにかく日本は危機管理は当時から駄目な国なのだ。ようやく公使車が着いて、電話で情報を伝えられるようになったのは、多分、2日目のことだったと思う。

1日目だったと思うが、クーデタ派の軍の司令部の場所を突き止めるため、借り上げたレンタカーで戦車を追いかけ回した。戦車は思いのほか速く(時速50キロ以上?)、しかも信号を無視して走るので追いつけない。ようやく追いかけていて、いつもモスクワ大学付近で巻かれてしまうので、このあたりに司令部があると突き止めた。あとでわかったことだが、モスクワ大学の近くのスキーのジャンプ台の上で司令部は市内を監視していたとのこと。なるほどね。あそこからだったら、市内中がよく見える。

さて、2目の夜、つまり20日から、21日にかけての夜、夜間外出禁止令が出され、電源が切られたホワイトハウス周辺は真っ暗だった。ホワイトハウスは自家発電装置でもあるのだろう、一部に灯りがついていた。真っ暗な中、特殊部隊が襲撃をかけてくるとの、いかにもありそうな話をみなひそひそ話していた。私は、ときどき、これも館員から借りていた双眼鏡でホワイトハウスの近くの橋まで出て、クツーゾフ通りの市外方向を監視していたが、そうしていると「襲撃部隊が来るのが見えるか」とちょくちょく聞かれたが、赤外線暗視鏡でもないので、はっきりと見えるわけがない。ときどき、車のエンジンのバックファイヤーでパーンという音がすると、そのたびに、私は地面に文字通り腹ばいになって伏せていたが、弾は飛んでこなかった。

そうこうするうち、真夜中、午前1時頃か、遠くないところで銃声が数発聞こえ、そのあと、夜空に照明弾がヒュルヒュルと上がった。銃声は妙に乾いた音だった。カリーニン通りとサドーヴォエ通りとの交差点で群集と軍(その後、KGBの偵察部隊とわかった)との衝突があり、犠牲者が出たとの話が伝わってきた。暗い中を現場に行くのは危険なので、そのままバリケードで不安な夜を過ごし、夜明けを待って、現場に出かけた。8月というのに寒い朝だった。焼けただれた装甲車、道路などに何カ所かにべっとりと血糊が付いている。状況からすると、轢死(装甲車にひかれた)で、死者は5名くらいか。とすると、あの銃声は威嚇射撃で、照明弾は事故のあったことを知らせるためだったのか。

この事件をきっかけに、クーデタは一挙に収束に向かっていった。エリツィンは3人の犠牲者をクーデタ解決後、国葬級の扱いで葬った。しかし、3人か? 葬儀のときにエリツィン側の係官に聞くと、「死んだモスクワっ子は3人」という微妙な答えだった。あとの2人くらいはKGBだから葬儀はしないということか。この事件の真相はエリツィン当局側の発表とは違うような気がする。当時、かなり酒の入った連中がたくさんいて、その連中がKGBの装甲車に毛布かシートのようなものをかけ、迷走した装甲車が群集の中にいた酔っぱらいをひき殺したということを言っていた連中がいたからだ。

歴史書に残る話ではない。酔っぱらいやバカ騒ぎしている若者たちがエリツィンを守るバリケードにいたのだ、というのは。しかし、私のニコンは、その連中を何枚か盗み撮りしている。盗み撮りというのは、仕方ない。日本大使館員ということが知れたら、そこにいることはできなかったと思うからだ。

3日目、クーデタはあっけなく収束した。私は大使館に戻り、そのあとシャワーと着替えのために短時間だったが、19日の朝以来の自宅に戻った。

しかし、本当に忙しかったのは、そのあとからだった。

| about Russia | 19:06 | comments(1) | - |
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コメント
今日は初めまして。当時いきなり「モスクワでクーデターが発生した模様です」TV中継が始まり唖然と見ていたのを思い出しました。貴重な歴史の証言を拝読しました有難うございます。
| 出之 | 2016/06/22 2:07 PM |
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